「……イチゴ」
人気のない路地の片隅に、ぽつりと佇む喫茶店。私と蓮子と二人っきりで、午後の講義をサボタージュ。
「イチゴの妖精でも見えたの?」
「もう、違うわよ」
のんびりとした良く晴れた日の昼下がり。おんぼろレコードが奏でるジャズの音色が、静かな時間の流れをなおさら緩慢に引き伸ばす。
触れるとひんやり冷たくて、だけどどこか優しい温もりを感じる木目の調度。店内は古い木材とマスターの挽くコーヒー豆の香りに包まれていて、鼻腔をくすぐるそれらの香りは、そっと程よく体から力をほどいてくれる。窓からは私たちを包み込むように柔らかな日差しが射し込んでいて、全身を襲う心地よい脱力感を増長させる。
お気に入りの紅茶を一口。ほんのりとした甘酸っぱさが素敵なアプリコット。ショートケーキの口当たりいい甘さと合わせて、私のティータイムには欠かせない味わい。
「イチゴが美味しいなぁって思っただけよ」
今日も蓮子はマスターおすすめのブラックと、好みのチーズケーキという組合せ。私だって人のことは言えないけど、いつも同じメニューばかり頼んでる彼女に、この感動はわからないわ。
「いつもこんなに美味しいなんて。ひょっとして天然物?」
「いやいや、十中八九合成だと思うわよ」
「もう、本当に蓮子ったら夢がないんだから」
「そう? 私はメリー、あなたが夢見がちすぎるだけだと思うけど」
いろいろな意味でね、と。蓮子はそう付け足して楽しげに笑った。
「もう……」
せっかく美味しいイチゴを食べたって、そんな味気ないことを言われるとなんだか面白くなくなってしまう。鼻を抜けるアプリコットの香りも、口の中にかすかに残るイチゴの甘味も、どことなく空虚に感じられてしまって。せっかくの大切で下らないお茶の時間も、楽しさ二割減だ。
じっと蓮子を見つめる。私の視線に気づいて手元のチーズケーキから顔を上げた彼女は、きょとんと呆けた表情を浮かべる。どうしたの? って。実際に蓮子が口に出して言ったわけでもないのに、彼女の表情がそう私に問いかけてくる。
「合成合成って言うけれど」
「ええ」
「こんなにも私たちの生活は人工物に囲まれすぎていて、じゃあ人工物じゃない物って何があるのかしら?」
今私が口に含むアプリコットも、食べかけのショートケーキも、貴女が昨日食べたチーズケーキも、マスターがおすすめするブラックも。
きっと全てが合成で。
「人も、実は合成物だったりしてね」
冗談で言ったはずの言葉。けれど私の胸には、ひやりと恐怖にも似た思いがよぎってしまって。
だって、私はこれまで誰からも、人は合成物じゃありません、と教わったことなんてないんだから。
人は、人が天然物だと当然のように思っている。だけどそれは、人がただ勝手にそう思い込んでいるだけで、本当は人も――――今こうして午後の講義をサボタージュしている私たちも、普段から口にする牛や豚のお肉と同じ、科学技術の産物にすぎないかもしれない。
考えてもみれば、そのほうが都合がいいかもしれないわ。どうせ合成物に溢れた世界で生きるしかないのなら、いっそのこと、それを当然のこととして生きるように、より順応できるように、人も合成してしまえばいろいろと納まりがよさそうだもの。
「なるほど、人が合成物、か」
貴女は笑う。
「案外、そうかもしれないわね」
そうやって貴女は、笑ってしまう。私の戯言を否定することなく、あまつさえ面白がって肯定してしまう。
それじゃあ、貴女はそれでいいの?
私に向ける貴女のその笑顔も、合成なの?
午後の講義をサボタージュした私たちが合成なら、窓の外から射し込む日差しを心地いいと思う気持ちも、この喫茶店を居心地のいい場所だと思う気持ちも、イチゴを美味しいと思う気持ちも、貴女と交わす下らないお喋りを大切だと、大好きだと思う私の気持ちも全ては合成になってしまうのよ?
蓮子。貴女、私に言ったわよね。
夢と現実は違う、って。
貴女の言葉は、貴女の言葉で救われている私は、全て作り物なの?
夢と現――幻と実体。その境界が、私にはとても曖昧で。そのことが怖くて、苦しくて、けれどそれでも、いつでも私のそばにいる貴女の笑顔が、声が、私の中で揺れる不安定な世界に明確な境を生み出してくれて。そのことが嬉しくて。
その全てが、発展しきった科学による産物だと言うのなら、私はいっそのこと、 現が夢であることを願うわ。
そしていつしか見た夢、そこで聞いた唄や触れた笑顔、それらこそが現であればと、願ってしまうわ。
「どうしたの、メリー。貴女が浮かない顔なんかしちゃって」
ショートケーキを一口。合成の、ほんのりと甘い味がする。
「否定してほしかったわ」
「へ?」
「人間が合成物かもしれない、なんて冗談、否定されてしかるべきものじゃないかしら」
いや、まあ、と頬を掻く貴女。わかってるわ。貴女は何の気なしに私の言葉を肯定したってことくらい。これは私のわがまま。私のどうしようもなく下らないわがまま。貴女の見せる笑みに、罪はない。
だけど、蓮子。貴女にこそ、貴女だからこそ、私のくだらないわがままを聞いてほしい。
「そりゃあ、もしも人間が本当に合成物だったら、私だって恐ろしいと思うわよ」
「でしょうね」
「けど、人間っていうか、生物の営みって、そもそもただの化学反応というか、物理現象じゃない? そう考えると、人間が合成物であったとしても、何ら支障はない気もするわね」
生き物って本当によく出来てるわよね、って。貴女はそうやってまた頬を緩ませて。
どうして貴女は、そうまで冷たいことを、無機質なことを笑顔で言えるの?
どうして貴女は、そうまで夢のないことを平気で言えるの?
それは蓮子、貴女が合成物だから?
無機質な合成物には、夢見ることが許されてはいないとでも言うの?
「まあそもそも」スプーンを弄びながら、貴女は言う。「天然物と合成物の境界なんて、極めて曖昧だと私は思うけどね」
「天然物と合成物の境界?」
「そう」
頷きながら、蓮子がテーブルの片隅にあるシュガーポットを手に取った。備え付けの小さじスプーン一杯に白砂糖を盛って、私に見せつけるように自分の顔の高さまで掲げる。
小さな山を成した白砂糖を挟んで、私と蓮子の視線が交差した。
「仮にコーヒーが天然物で、この砂糖が合成物であったとするわ」
蓮子が小さく手首を返す。スプーンに盛られた白砂糖が、卓上のブラックへさらさらと静かに降り注ぐ。カップに飛び込んだ白砂糖は、真っ黒な水面へ触れた途端に音もなく液体の中へと溶け込んでいった。
カチャカチャっと。小さく音を鳴らして、蓮子がコーヒーを掻き混ぜる。
「ねえ、メリー。このコーヒーは天然物? それとも、合成物?」
「それは……」
言葉に詰まって、視線を彷徨わせた。白砂糖の溶け込んだブラックと、きらりと光る銀のスプーンと、私をじっと見つめる蓮子の深いブラウンの瞳と。行き場もわからずぐるぐる回った私の視線は、ついに泳ぎ疲れてアプリコットへと注がれる。
「ね? 天然物と合成物の境界なんて、所詮はこんなものなのよ。誰も気付きはしないし、気付こうとも思わないし、そもそも気に掛けようとすらしないわ」白砂糖の溶けたコーヒーを啜って、「まあ、この甘ったるさはちょっとばかり気を付けるべきかもしれないけどね」
「でも、蓮子」
「うん?」
私はアプリコットを見つめた。
表面で揺れる光。それは水面に照明の光が反射しているだけにすぎなくて。言ってしまえば、幻想の光だ。だけれどその光は実在している。この世に存在しなくちゃ不自然なものとして、確かに存在している。
「それじゃあ、夢と現との境界は曖昧で、その二つは不可分だってことかしら?」
カップを置いた蓮子が、指でグリグリと眉間をおさえて唸る。そんな反応をされるとは思ってもいなかったから、面を食らって黙っていると蓮子が呆れるように言った。
「貴女の頭の中で今度はどんな不思議世界が広がってるのかはわからないけど、一つだけ言えることがあるわ」
「なぁに?」
「それはね、メリー。貴女の中では夢と現の境界が曖昧であることと、夢と現とが同一であるという考えとが完全に混ざり合っちゃってるってことよ。両者はとても似てるようで、全く異なる問題だわ」
「理系はそうやってすぐ難しいことを言うんだから」
「だから、難しくとも何ともないって」
コーヒーの入ったカップを、蓮子がついと無言で差し出してくる。思わず受け取ってみてから、ゆらゆら揺れるコーヒーに視線を落として、どうすればいいのかわからず蓮子の顔を見つめ返す。じーっと、蓮子も蓮子で私を見つめたまま、何も言わない。それが正解なのかわからないまま、私は一口、砂糖の入ったコーヒーを口にした。
「味はどう?」
蓮子がにんまり笑う。
「あ、味? それはぁ、……苦いわ」
「でも、甘いでしょ?」
「ええ、そうね」
コーヒーならではのビターな味わい。あまり好きになれないイガイガした味は、けれど溶け込んだ白砂糖のおかげでほんのり丸みを帯びていた。
蓮子が私からカップを取り上げて言う。
「この世の中ってものは、こうやって夢と現が曖昧に溶け合ってるのよ。マクロな視点から見たら、確かに二つは同一であるように見えるかもしれない。でも、ミクロな視点でこのカップの中を覗いてみたら、コーヒーと砂糖は、まったく別物として共存してるの」
「共存……」
「そう、共存。コーヒーも砂糖も、確かにそれ単体で存在しえる物だわ。けれどそれら二つが絶妙に混ざり合うことで、より素敵な物を生み出してる。夢と現は可分であり、不可分なのよ」
混同ではなく、共存。
それぞれが独立した役割を持ちながら、二つが組み合わさることで新しい何かが生まれる。
夢と現、その中間点ではなく歩み寄りの結果。それが、この世界だということなの?
「合成物だって、決して悪いものじゃないと思うわ。貴女がいつか見たって言う子ども達は、夢を夢として、現を現としてしっかり認識したうえで、それらをうまく共存させていたからこそ笑っていたんじゃないかしら」
「じゃあ、もしも人が合成物だったとして、蓮子はそのことを肯定できる?」
「んー……」
蓮子は頬杖をついて、気付けば中身の無くなっているカップを見下ろした。そして空いた方の手をゆらりと動かしたかと思うと、手にしたフォークでチーズケーキの最後の一欠けを口に放る。満足げに頬を綻ばせて、彼女は言った。
「まあ、確かに気味悪いかもしれないけど」その瞳で私を見つめる。「チーズケーキを美味しいと思う気持ちとか、メリーとこうして喋ることが楽しいと思う気持ちは、決して合成物じゃないもの。そのことが確かなら、それでいいじゃない」
なんてね、って。そう言って貴女は、屈託のない笑顔を私に向ける。いつも私の隣で見せてくれる、とても見慣れた、そしてとても素敵な笑顔。
私も残ったショートケーキの一欠片を、ぱくりと口に放り込んだ。柔らかく優しい甘みが口いっぱいに広がって、私の頬も自然と綻ぶ。
「確かにそうね。合成物だって、そう悪くはないかも」
合成物と自然物とが入り乱れる世界で、私たちは今ここに存在する。合成で溢れ返った世界で、それでも私は貴女と笑っていられる。
夢と現。その二つは曖昧に溶け合っていて。私にはまだそれらを明確に分つことができないけれど、だからこそ、両者の狭間に在るこの世界を、織り成される景色を、大切にしてみるのもいいのかもしれないわね。
例えこの身が合成だったとしても、蓮子。貴女といれたなら、私はそう思えるわ。
*あとがき*
この度は、私brotherの拙作をお読みいただき、ありがとうございました。
秘封好きな作者が、長期休暇期間を使って何かしら秘封作品を書きたい!といった具合のノリで生み出した作品です。
けれど秘封好きなどと言う割には当作品、ろくにプロット等を作らず、気の向くまま指の動くまま書きました。
しかも短い。
まあそれでも、二人に触れていく中で、どうしても『合成』という要素といいますか、言葉が私の頭の中から離れず、この作品でも『合成された世界』とはどんなものか、という点をメリーの視点から描く結果となりました。
作者のSF好きも原因でしょうかね。
それにしても、蓮子とメリーの二人は不可思議で不可解で不可測なコンビですよね。
彼女たち二人だけを見てもこれだけ怪しげな魅力が満天なんですから、彼女たちが生きる未来の世界をしっかり見つめて行けば、きっと更に面白いことになるんだろうなぁ、と。
いつかもっと真剣に彼女たちを見つめた作品を書きたいなぁ、と。
常々思ったりしています。
いつ達成するのか、あるいは本当に達成されるのか不明な願望を吐露したところで、そろそろ終わろうと思います。
あとがき併せ、ここまで読んで頂いた皆様に最大級の感謝を。
ではでは。
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