――――孤独だった。
 夜の魔法の森は、音で溢れ返っている。
 風の吹き抜ける音。木々の葉擦れ。身の毛のよだつような妖怪の鳴き声。そして耳の裏で絶えることなく響き続ける自らの拍動。
 曇り空で星明りも射さぬ暗闇に沈み、膝を抱え、ただただ音に溺れていた。音の波に押し潰されそうになった。小さな自分なんか、あっという間に押し流されてしまいそうだった。そのことが怖くて、悔しくて、ぎゅっとスカートの裾を握り締めた。夜の闇にも負けない、黒のスカート。魔法使いなら黒装束だ。そんな呪縛にも似た拘り。形から入って、肝心の中身が理想に伴っていなくて。
 ――――未熟だった。
 ただ夢を追っていた。こんなにも輝かしい世界で生きているのに、ただ里で(くすぶ)っているのが嫌だった。何かに縛られて、自分の全てを決定づけられるのが嫌だった。だから家を飛び出した。自分を取り巻く奇跡にさえ、幻想にさえ負けないくらい、誰にも成し得ない何かを成したくて。成してみせると誓って。だから頑張り続けて。
 常に一人だった。
 常に孤独だった。
 それでも戦い続けて、それでも自分は未熟だった。
 私だけの魔法。そんなものを追い求め続けて、手を伸ばし続けても、自分と夢とを隔てる道のりはあまりにも長すぎた。
 風が強く吹き付けた。自分には大きすぎる帽子が飛ばされてしまわないように、必死に押さえ込んだ。心が震えていた。(あらが)わなければ、この帽子と一緒に私の夢までどこか遠くへ飛ばされてしまう。そんな思いに強く駆られていた。どうしてこんな思いをしなければいけないんだろう。私はただ夢を追い求めているだけなのに。これだけの思いをして、それでも夢を掴める確証さえなく。全てをかなぐり捨ててきたのに、脇目もふらず前を見つめ続けているのに、なのに、こんなにも寒くて苦しくて寂しいのは何故だろう。
 気付けば、握りしめた両手へさらに力を込めていた。自分で自分の手を握り潰してしまいそうだ。耐えていた。歯を食いしばっていた。今負けたら、このわけのわからない感情に負けたら、涙が溢れて止まりそうになかった。だから、痛いくらい歯を食い縛ってひたすら耐えた。
 木々が、獣の咆哮にも似て轟々と身を震わせる。うんと背の高い木の枝たちが、まるで小さな私を捕らえんばかりにぐらぐらとその大きな四肢を揺らした。
 思わず頭上を仰いだ。雪崩来る恐怖に引き付けられるように。襲い来る恐怖を睨み付けるように。
 見上げた空。おぼろげに見える雲の流れは速かった。そうしてふと生まれた雲間、そこから射し込んできたものに目が眩む。
 天の川。数多の星々が織り成す天蓋の大河。
 柔らかで優しい光が一筋、真っ直ぐに私を包み込んでいた。
 頬を温かなものが伝った。止め処なく流れ続けた。これまで懸命に堪えてきたはずなのに、それはいとも呆気なかった。だがその温もりは、どこまでも心地よかった。
 綺麗だ。ひどく純粋にそう思った。
 ――――諦めたくなかった。
 それでも掴みたい。今は星屑のような輝きでも、極めて小さな輝きでも、いつか必ず、この途方もなく輝かしい天の川にも負けない煌めきをこの手に掴んでやりたかった。
 ――――負けたくなかった。
 負けるわけにはいかなかった。これまでかなぐり捨ててきた全てへ胸を張るためにも。ひたすら前を見据え続けるしかなかった。
 私だけの奇跡。
 私だけの魔法。
 雲間に覗ける光すら霞んでしまうような、私だけの星空を絶対に生み出してみせる。
 小さな魔法使いは笑った。涙をいっぱい湛えた両目に、今は小さくとも、確かに強い光を宿して少女は笑った。

★★★


 ――――あと一枚。
 呪文を綴る。数多の魔法陣が翻った。一条また一条と光線が幾何学的紋様を宙へ刻み込むただ中を、この上なく真っ直ぐ空翔ける。
 霊力のうねりを肌に感じた。見据えた先、幾重にも重なって展開された結界が視界を覆う。光線が結界へ突き刺さる。魔力と霊力とが激しい火花を伴って(せめ)ぎ合う。
 箒の柄を握り締めた。自らの意思に振り落とされないように。
 そして加速。火花を振り払い、結界を掻い潜り――この上なく複雑な空中機動。
 迫る護符――魔弾を真正面からぶつけた。
 迫る針弾――反射的に身を屈めて凌いだ。
 迫る陰陽玉――光線の一撃で刺し貫いた。
 陰陽玉の爆散。細やかな(つぶて)の数々を身に受けながら、それでも前に進み続ける。
 ――――届く。
 箒の上に立った。ミニ八卦炉へ魔力を注いだ。
 目前まで接近した巫女が(ぬさ)を構えた。高らかに祝詞(のりと)が捧げられた。
 そして溢れ出す光芒(こうぼう)の渦。空間全てを呑み込まんとする光の氾濫(はんらん)
 質量を伴った光彩――――夢想封印。
 柄を蹴って箒の上から跳んだ。足元すれすれを光弾が突き抜けた。箒による推進力と光弾からの風圧、そして自らの脚力全てを賭して巫女の頭上まで躍り出る。
 巫女が驚きに目を見張ってこちらを見上げた。
 十二分に装填された魔力。あとは方向性を与えて引き金を引くだけだった。
 今日は、今日こそは。
 ――――届く!
 急速な落下感覚に抗うが如く叫んだ。
 放つ恋符――――限界を超えた先にある何かを信じて。

★★★


「だーッ、もう! どうしてあそこで負けるんだぜ!」
「詰めが甘いのよ、詰めがね」
 幻想郷の隅っこ、博麗神社の縁側。
 霧雨魔理沙と博麗霊夢は、お盆に乗る二つの湯呑を挟んで空を見上げていた。
「霊夢のスペルは全部見切ったんだぜ? それがこんな結果だなんて、納得いくもんか」
「あんたが納得しようがしまいが、あんたは負けよ」
 さも得意げな調子で言い、霊夢は湯呑を傾ける。冷たい麦茶が喉を鳴らす様に魔理沙も湯呑へ手を伸ばしかけたが、すぐに腕を組みなおして自分を制す。いま湯呑に手を出したら、まるで自分が霊夢のあとを追っているようで(しゃく)だった。
 軒に吊るされた風鈴が、高く澄んだ音を奏でる。帽子を手に取り、団扇(うちわ)よろしくのんびり扇いだ。冷えた汗に心地よさを感じながら、視線はやはり自然と空を向いていた。
 文月の七――――俗にいう七夕の日。空は、薄ぼんやりとした雲に覆われている。
「せっかくの七夕なのに、こんな天気だから負けたんだ」溜め息交じりに「今日は朝から調子が悪いんだよな」
「なによ、魔理沙。そんなことを言ったら、幻想郷は常に曇ってなきゃいけないじゃない」
「あー? 言っておくけどな、霊夢。私の戦績だってそこまで落ちぶれちゃいないぜ? だいたい五分五分ってところじゃなかったか」
「五割六厘」強調するようにはっきりと「四捨五入したら私の方が勝ってるわ――――あれ、しなくても勝ってるわね」
 楽しげに笑う霊夢に、また一つ溜め息が漏れる。こちらが人知れず入念な準備を重ねて弾幕ごっこを挑んでも、対戦相手がこんな調子だとなんだか遣る瀬無くなってくる。
 それに、この日は本当に調子が悪かった。
 今日という日は、まず朝一番に栽培中のキノコが、部分的にではあるが壊滅しているのを発見するところから始まった。毎日の日課として行う魔法の燃料精製にも、なかなか難儀してマジックアイテムを浪費してしまった。気を取り直して化け茸を採りにいこうと行きつけの採集スポットに向かってみるも、肝心のキノコは何者かにあらかた蒐集されていて良い収穫が得られなかった。
 そして今回の敗北。
 何をやっても上手くいかなかった。普段から嫌なことも煩わしいことも忘れて熱中できる弾幕ごっこさえ結果はこれなのだから、気はただただ滅入る一方だ。
「あーあ」
 そしてこの天気。昨日までよく晴れていたくせに、今日は起きた時から天蓋全体が雲に覆われていた。それだけでも嬉しくないのに、この日の湿度はやたらと高く、余計に気分はぐずぐずと沈む。
 仮に幻想郷を何か一定のリズムのようなものが支配しているとしたら、朝起きた時から突然、自分だけがそのリズムから弾き出されてしまったようにさえ思えてくる。何を見ても、何をしても良くない結果が訪れる。幸運の申し子のような紅白巫女と隣り合っていると、今の自分は本当に幸運から見放されているのだ、という錯覚に陥りそうだった。
「……綺麗な天の川でも観れたら、ぜんぶ帳消しにしても良いんだけどな」
 何となくそう思った。しかしこの空模様だと、それも不可能だろう。
 神社に賽銭でもすれば善い事が起こるだろうか。そんなことをチラッと考えたが、この神社に御利益があるかどうか、そこがそもそも怪しかった。それに神頼みで得た幸運なんてものは、強者から貰うお情けのようでやはり気に食わない。
「そんなに今日の天気が気に入らないなら、いい案があるわ」
「いい案……?」
「そう、いい案よ」
 思わず食い付いてから、霊夢が意地の悪い笑みを浮かべていることに気付いた。
「なんだったら、魔理沙が空模様を変えてしまえばいいのよ」
「はぁ? なんだそりゃ」
 もう少しマシな冗談かと思いきや、あまりに突拍子もないことを言いだす霊夢。その規模の大きすぎる冗談に、なんと返せばいいかもわからず言葉が途切れる。
「星の魔法使いなんだから、それくらいできそうじゃない?」
「無茶言わないでほしいぜ……」
 ほとんど手を付けていなかった麦茶を一息に()し、傍らに立て掛けた箒を手にひょいと立ち上がった。大きく伸びをする。弾幕ごっこで疲れた体に、それは程よく心地よかった。
「もう行くの?」
「わけのわからん冗談に付き合ってはいられないからな。そろそろお暇するぜ」
 ホップ・ステップで助走して、ジャンプで小さく地面を蹴って。
 風鈴の揺れる音と、湯呑みを傾ける霊夢とを残し、魔理沙の体はふわりと宙に舞い上がった。

★★★


 空を翔けながら、魔理沙は曇る空を見つめた。
 ――――魔理沙が空模様を変えてしまえばいいのよ。
 霊夢本人からしても、特別な意味を持って言った言葉ではないだろう。純粋に、ただのくだらない冗談だ。
 普段だったらこんな冗談、魔理沙だってすぐに忘れてしまうはずだった。霊夢に劣らず、というよりむしろ霊夢以上に、魔理沙はくだらない冗談を言って人をからかうのが好きな性格だ。そんな性格だからか、人のいうことを適当にあしらうのだって得意なものだ。
 けれど、朝から失敗が続くこのタイミングで人から、しかも霊夢からあんなことを言われると、その言葉を簡単に受け流すのも難しかった。失敗続きで少々落ち込んでいる心が、あんな無茶な冗談を真に受けてしまっている。
「……くだらないぜ」
 なにをぐちぐちと落ち込んでいるんだ。そう自分に言い聞かせようとする。しかしそんな言葉を、心はすんなりと受け入れてはくれなかった。
 自分の弱さをそんな言葉一つで片付けられるほど、諦めのいい性格をしてはいなかった。そしてその諦めの悪さが、魔理沙の魔法を生み出してきたのだ。だが同時に、そんな性格が、今の曇り空にも似てどんよりとした気分を生み出している。
 我ながら面倒な性格だ。心底そう思った。
「あら、魔理沙じゃない」
 不意に名前を呼ばれ、俯きがちだった視線を声のした方へと向けた。気付けば、魔法の森の上空を飛んでいる。地上を見やると、鬱蒼として繁る木々の合間に、よく見慣れた家が建っていた。
「いったいどうしたの、ぼうっとしちゃって」その家の主が、見下ろす先から空へ翔け寄ってくる。「熱さにでもやられたのかしら?」
 アリス・マーガトロイド。魔理沙と同じく、魔法の森に住む魔法使いの少女だった。
「ん……。まあ、いろいろな」
「アンタが物思いに(ふけ)るなんて、珍しくて雲が干上がるわね」
「失敬なやつだ」
 そんな魔法があったなら、ぜひとも教えてほしいものだ。脳裏に浮かんだ皮肉めいた文句を、しかしすぐさま拭い払った。そんなことを言ってもなおさらアリスにつつかれるだけだし、いつまでもそういった思考に囚われているのはよくなかった。
 意識して周囲に目を向ける。視界の隅に映った人形が、魔理沙の興味を引きつけた。
「アリスこそ、人形に荷物なんか持たせてどこに行くんだぜ?」
「ああ」
 アリスが小さく手を振った。すると、一つのバスケットを仲良く提げていた二体の人形――上海人形と蓬莱人形が、アリスのすぐそばに寄り添う。満足げに微笑み、アリスは言うのだった。
「大図書館にね。魔法の研究よ」
「ほう」
 自分でも面白いくらい、あっさりと好奇心をくすぐられていた。
 魔法の研究、などという言葉を鼻先にチラつかされれば無理もない。しかも普段はなかなか目にすることのできない他人の魔法研究である。思わず食い付いてしまうのも、魔法使いの(さが)というものだ。
 大図書館に行くということは、パチュリーも必ずそこにいるはずだ。ちょうど朝に魔法燃料の精製に失敗したばかりの魔理沙である。アリスとパチュリーの研究を一目見ることができれば、そこから新しい何かを得られることは確実だった。
「そいつはぜひ私も一緒に――――」
 そう言いさし、ふと口を噤んだ。パチュリーという名前を自分で思い浮かべ、あることに気付いたのだ。
「どうしたの?」
「あー、いや。付いて行っても、十中八九パチュリーには煙たがられるな、と思って」
 大図書館に自分が現れて、果たしてパチュリーがどんな反応を示すか。少し考えてみれば、その情景がありありと思い浮かべられる。今日はいったいどんな魔法を使って追い払おうとしてくるか、それさえ言い当てられそうで怖かった。
「いつも堂々と盗みに入ってるくせに」
「借りに行くぶんには良いんだけどな。無防備に向かうとなると、なんだか」
「あなた、言ってることが滅茶苦茶よ?」
 やれやれと肩をすくめるアリス。身を(ひるがえ)し、彼女は背面飛行で緩やかに進み始めた。
「何があったのかはわからないけれど、気晴らしに来てみたらいいじゃない。私が誘ったって形なら、すこしは来やすくもなるでしょう?」
「まあ、お前がどうしてもって言うなら仕方ないな」
「――――まったく」
 横転し、アリスが姿勢を仰向けから俯けに変える。滑るように翔けてゆく彼女へ追いすがるため、魔理沙も体を箒の柄に寄せ、姿勢を低くした。
 風が巻き起こる。夏の風は二人の頬を撫でるように過ぎ去り、金の髪を弄んだ。
 幻想郷の空を、言葉少なに肩を並べて。
 考えてみると、こうしてアリスと一緒に空を飛ぶのは珍しいことかもしれない。彼女の家に押しかけて取り留めのない話に花を咲かせることはままあるが、二人並んでどこかへ赴くといった機会はなかなか無かった。
 普段から、こうして魔法研究のために紅魔館を訪れているのだろうか。そんな真っ当な目的で大図書館に向かうアリスと、いつも七曜魔女に苦い顔をされる自分。対比してみれば、そんな二人が頻繁に揃ってお出掛けに興じるわけもないか、とおかしな納得に至る。
「あら?」
 思考の雲海を縦横無尽に飛び回っていると、隣のアリスが声を上げた。もうすぐで木立を抜け、霧の湖の畔へ差し掛かろうとしていた時のことだった。
「おい、どうしたんだよ」
 急減速するアリスを振り返るように魔理沙も速度を緩める。
「ほら、あれ」
「あー?」
 アリスの指さす先を、ぐるぐる宙を旋回しながら見つめる。
 霧の湖は、その周囲を青々とした森林に囲まれている。魔法の森には劣りながらも、動植物や妖怪、そして妖精で賑わうそんな木々の一角が、不自然に白く染まっているのが遠目にもわかった。その様はまるで、雪が降ったあとの様子にも似ている。だがしかし、文月の蒸し暑い時期に、雪などというものはあまりにも異質だった。
「異変かしらね」
「おいおい」
 アリスが冗談めかして言う。しかし過去にも、春がいつまでも訪れなかったり、天候がひっちゃかめっちゃかになったりと、いろいろな異変があった。そこにくるとアリスの冗談は、そう笑えるものでもない。
 と、すっかり静止してしまっている二人のもとに、地上から、ふらふらと頼りなく飛んで来る者がいた。
「す、すみませんっ!」
「お?」
 二人のもとまでやって来たのは、湖付近で時折見かける、緑の髪にサイドテールが特徴的な大妖精だった。
 やたら甲高い声の主を見、それから二人はきょとんと互いを見交わした。これは一体なんだ。二人は共に、相方へそんな疑問の視線を投げかける。
 あまりに長い二人の無言に、大妖精がおろおろと落ち着きをなくす。妖精とは本来臆病者であるから無理もなかったが、そんな臆病者の妖精が向うから話しかけてくることがそもそも、魔理沙たちには理解しがたかった。
 これは本当に異変の兆候なのではないか。そんな不安が頭をもたげだす。環境の微細な変化を敏感に感じ取った妖精が、それに影響され、一時的に大胆不敵な態度を取り出したのでは――――。
「あっ、あの……!」
 大妖精が、小さな体躯(たいく)から懸命に絞り出しました、といった具合の大声で再び二人に呼びかける。哀れと言っていいくらい体を縮こまらせ、瞳に揺れる不安の色は、もはや風雨に打たれる子犬のそれにも似ていた。
 明らかにびくびくし過ぎだった。ここまで弱々しければ、もはやこれが異変の兆候だとは到底思えない。いつも通り臆病な妖精が、目の前にいるだけである。
「どうしたって言うんだぜ」
 頭を掻きながら言う。異変でないと言うのなら、これ以上妖精と戯れていれば厄介事に巻き込まれるぞ。経験が、そう魔理沙の耳元で囁いていた。言われなくとも、いつもなら暇な時以外は妖精の言葉になんぞ耳を貸さない魔理沙である。しかし、いま彼女に何かを訴えようとしている大妖精の様を見ていると、それを無視するのが妙に憚られた。それだけ、勇気を振り絞っているのだということが伝わってくる怯えかただった。
 大妖精の肩から、僅かに力が抜けた。人間に話が通じ、少なからず安堵したのだろう。
「お、お願いがあるんです」
「断った。過去完了だ。もう覆らないぜ」
「うぅ……」
「魔理沙……」
 大妖精がまたも体を縮こまらせ、アリスがこめかみを押さえる。ここまで露骨な反応をされると、さすがに面白くない。溜め息を一つ()き、
「で? 手短に頼むぜ」
 大妖精が半信半疑といった様子でアリスに視線を向ける。アリスがこくんと頷き返すのを見て、大妖精は言った。
「そのっ、チルノちゃんとルーミアちゃんがすぐそこで喧嘩をしてて。えっと、その……、ふ、二人を止めてほしいんです!」
「……なんだそりゃ」
 あまりに拍子抜けで、自分でも思っていなかったほど低い声が出る。大妖精が涙目になった。ああ、めんどくさい。今すぐに全速力でこの場から飛び去りたいむず痒さを抑え、魔理沙は強いてにこやかに言う。
「そんなこと私に言われたって、困るんだがな」
「でも、こんなこと頼めるのは魔理沙さんしかいないし……」
「魔理沙」三秒で笑みが引きつった。「さん……?」
 魔理沙は自分の耳を疑った。妖精からさん付けで呼ばれたことなど、これまでほとんどなかった。過去に彼女のことをそう呼んだ妖精たちがいたが、それが極めて異例なのであって、しかも純粋な尊称としてそんな呼ばれ方をすると、そこはかとなくこそばゆいのであって――――。
「三妖精が、魔理沙さんは妖精にも親切だって……」
 自分の中の何かが打ちのめされる音を、魔理沙は確かに聞いた。視線のすぐ隅で、アリスが声を押し殺して腹を抱えている。小憎らしく、バスケットを提げたまま人形たちまでもが器用に腹を抱えていた。
 大妖精が、果敢にも一歩踏み込んできた。ポリシーとかプライドといった類の物に(ひび)が入った今、大妖精が踏み込んでこようがどうしようがどうでもよかった。
「何でも屋≠烽竄チてるんですよね? だったら、良いですよね?」
「もう、好きにしろ……」
 あははっ、とさも楽しげに笑いながら、アリスは大妖精のあとを追って降下を始める。普段は物静かなくせして、こういう時はやたら元気な奴だ。魔理沙はやり場のない苛立ちを覚えたが、ぐっと飲み下してアリスの背を追いかける。

★★★


「よっと」
 地面に降り立つと、その感触に違和感を覚えた。足元で、しゃりっと落ち葉を踏みしめたような音が鳴る。しかし落ち葉を踏みしめたにしては、足の裏へ妙な抵抗を受けていた。
 地上へ近付くにつれておかしいとは思っていたが、やはりこの一帯だけがいやに寒かった。夏の多湿な空気に冷気が合わさり、纏わりつくような寒さを肌に感じる。足元の違和感は、地面に霜が降りているせいだった。夏の青々とした木々の葉も霜によって余すことなく白色に染まっており、そのちぐはぐな光景は幻惑的であるとさえ言える。
「うるさーいッ!」
 甲高い声が鼓膜を揺さぶった。聞き覚えのある声に、視線を木々から外す。大妖精が翔けてゆく先に、ルーミアとチルノの姿があった。二人は対峙したまま、明らかに険悪ですと言わんばかりの雰囲気を振りまいている。
 見ると、チルノは両手を空に向かって掲げていた。その手の先では、一本の氷の矢がきらきらと陽の光を受けて(きら)めいている。どうやら二人の喧嘩は、弾幕勝負に発展しつつあるらしかった。
「まったく、勘弁してほしいぜ」
 他人の弾幕勝負に水を差すのはあまり気乗りしなかったが、依頼されてしまったからには仕方ない。魔理沙はチルノとルーミアの(もと)に駆け付けつつ簡単な呪文を紡ぐ。そうして形成された魔方陣が、魔理沙の魔力によって一条の光線を放った。
 光線は狙い違わず氷の矢を刺し貫く。手の平の上で粉々に砕かれた矢。チルノとルーミアが面白いくらい肩を強張らせてこちらに振り返り、魔理沙と傍らのアリスを見てさらに飛び上がった。
「な、なんでお前たちがここにいるんだ!」
 駆け付けるなりチルノがこちらを指さして喚き散らす。
「何でって言われてもな。吸血鬼の館に向かってたんだが、そこの妖精にお前らを止めるよう頼まれてしまったというわけだ」
 にっ、と笑って見せる。果たしてその笑みがチルノたちにはどう映ったのかわからなかったが、顔を青くしている様子を見ると、少なからず歓迎されてはいないようである。大妖精の時といい、こうも恐れられているとそれはそれで厄介だなと思いはしたが、かと言って恐れられていた方が退治する際には好都合であるから難儀である。
「だ、大ちゃん、どうして二人を呼んだんだー?」
 大妖精が魔理沙たちにコンタクトを取ったということが、やはり彼女たちにとっても驚くべきことだったらしい。ルーミアが、その額に「驚いてます」と浮かび上がってきそうな表情で、魔女襲来の訳を問いただしている。
「だって、二人が喧嘩しちゃったら私じゃ止められないから……」
 そう答える大妖精の声音からは、深い不安の感情が読み取れた。その感情の根底にあるのは、仲間に対する思いやりだろうか。なんにせよ、そのたった一言だけで大妖精の必死さが嫌というほど伝わってくるような気がした。
 力のない者が、それでも諦めることなく自らの成し得る事を成す。そんな大妖精の姿が、この瞬間、強い共感を伴って魔理沙の瞳には映っていた。
「この子もそう言ってることだし、一度落ち着いてみたらどう?」
 彼女たちの間を取り持つように、なんとも優しい口調でそんなことを言うアリス。いつもだったら自分より格下の妖精なんぞ見向きもしない彼女が、いったいどうしたのか不思議だった。
 けれど正直、妖精たちの小競り合いの仲裁などしたことがない魔理沙である。ただでさえ小競り合いを鎮めるよりは起こす方が得意なのだから、アリスの存在は心強かった。
「そうだそうだ。今日はせっかくの七夕なんだし、もっと楽しくいこうぜ」
「嫌だ!」
 眩暈さえ覚えるほどの大声でチルノに即答される。そう簡単に納得する相手だと思ってはいなかったが、まさかここまで取り付く島が無いとも思っていなかった。だが、この氷妖精には、あまり聞き分けの良さを感じない。時折耳にするおてんば加減からも、これくらい反抗的であった方が彼女に対するイメージに沿ってはいた。
「おいおい……。どうしたって言うんだぜ? 何をそんなにムキになってるんだ」
「アンタになんか教えるもんか!」
 髪を逆立てんばかりにいきり立つチルノ。こちらが彼女に語り掛ければそれだけ、魔理沙たちを取り囲む冷ややかさは度を増してゆく。
 いくら氷の妖精であるとはいえ、この時季に森林をここまで凍てつかせている時点で、そもそも異常なのである。そしてそれだけ、チルノを突き動かしている物は、少なからず彼女にとってとても大きな物なのだ。しかし、それがいったい何なのかは、さっぱりわからなかった。
「ま、まあそう怒るなよ。冷静になろうぜ。な?」
 チルノはただ俯いて、ワンピースの裾を握り締めた。
 沈黙があった。誰も何も言わず、ただ時間が過ぎてゆく。
 嫌な均衡だった。黙っているだけでは何の解決にもならないのに、発する言葉一つで事態が決定的に崩壊してしまう。むしろどのような言葉をかけても、もう状況の行き着く先は同じかもしれない。それほどまでに事態は進行してしまっている。そういう均衡だった。
「もう、いい」
「チルノちゃん……」
「チルノ……」
 大妖精の呼びかけも、ルーミアの呼び声も。一切を振り払うようにして、チルノが羽を強く羽ばたかせた。
 そうして見る見るうちに小さくなってゆく氷妖精の後姿。誰もその後を追えないまま、重く冷たい沈黙に佇んでいた。
「――――いったい、何があったって言うの?」
 アリスが静かに切り出した。それは大妖精やルーミアに問いかけているようでもあったし、もはや後姿さえ見られなくなったチルノに対する語りかけのようでもあった。
「チルノがねー」ルーミアが言う。「七夕なのに曇ってるのは嫌だって言い出して。たったそれだけだったのに、喧嘩になっちゃったの」
 せっかくの七夕なのに。
「……悪かったな、仲裁、失敗してしまって」
「そ、そんなこと……大丈夫ですよ!」
 大妖精の相も変わらず高い声が、魔理沙の心を苛んだ。つとめて元気に振る舞おうとしているのが、ありありとわかる笑みだった。
 ――――駄目だ。
 何をやっても良い方向に動かない。何をやっても失敗ばかりする。今日という日は、本当についてない。
「……魔理沙、行きましょ」
 未だ凍てつく大地を蹴って、アリスが宙へ飛んだ。最後に大妖精、そしてルーミアに何か一言伝えようとして、何を言えばいいのかもわからず箒に跨る。まるで彼女たちを置き去るようにして、まるで彼女たちを見捨てるようにして、箒は従順に空高くへと昇ってゆく。
「まあ、放っておいてもそのうち仲直りするわよ」
 冷気に覆われる一帯を抜け、湖の上空へやって来た頃、アリスがそう口を開く。
 確かに、放っておけば時間が事を解決してくれるかもしれない。しかし、ただ解決すればいいというわけでもなかった。仲裁を頼まれた自分がもっと上手に動けていたのなら。そんな考えが、無力感が、ただただ頭の中を埋め尽くしていた。
 この思いは決して、妖精たちを思ってのものではないのかもしれない。これ以上の失敗を恐れた魔理沙自身の、自らを守るための思いかもしれない。だがそれでも、普段から人知れず、人一倍の努力を重ね続けてきた彼女にとって、これほどまでの失敗続きは、無力さの表れは、耐えがたいものがあった。
「なあ、アリス」
 湖上で停止した。
「どうしたの?」
「やっぱり今日は、やめにするよ」
 振り返ったアリスの表情が、ふっと曇った。僅かに細められた両の瞳はさながら、魔理沙に強く真相を追究しているようであり、それでいて相手の心想をどうにか理解しようとしているようでもあった。
「……やっぱりあなた、何かあったんでしょ?」
「まあ、そうだな」頷いて、「だから今日は、家に帰って休みたい」
「そう」
 アリスが微笑んだ。決して、魔理沙がいったい何に苦しんでいるのか、そのことを理解したわけではないはずだ。しかしそれでも、魔理沙の悩みを肯定してくれる優しい笑みがそこにはあった。
「まあ、何かあったら来なさいよ」
「そうするよ」
 魔理沙の返事に頷き返すと、アリスは再び湖上を翔け出した。

★★★


 魔法の森の中を、のんびりと歩いていた。他と比べてもとりわけ湿度の高いこの場所を地道に歩くなど、普段では考えられたことではない。草木は自由気ままに繁茂(はんも)していて、進む道は悪路だ。箒に跨って空を飛んだほうが家まで辿り着くには圧倒的に楽だったが、それでも今は、ただ無駄に時間を使って歩いていたかった。
 鳥のさえずりや蝉の鳴き声が魔理沙を包み込んでいた。こうして何も考えずにただ自然の音へ耳を傾けるのは、意外と新鮮なことかもしれなかった。移動は常に空路だし、家では窓を閉めたまま籠りっきり。化け茸の採集だって、魔法のことばかりを考えていて周りの音はほとんど意識の外だ。
 透明な風の音。揺れた木々の葉擦れる音。踏みしめた土の湿った音。
 そして、自分の口から零れる呼吸の音。
 ああ、今ここにいるんだな。そんな思いが、漠然と胸の内に湧き起こる。
 悩める自分が、諦めの悪い自分が、無力な自分が――――魔法使いとして、それでもこうして前に進み続ける自分が。
「あれ?」
「おや?」
 草木を掻き分けるようにしてほとんど道無き道を進んでいると、視界の少し開けた場所で意外な人物に出会った。
 森近霖之助。魔法の森、その入り口手前で小道具店の香霖堂を営む青年だった。
「やあ魔理沙。君が森を歩いてるなんて、珍しいじゃないか」
 横倒れになった樹木に腰掛けつつ、額を拭う霖之助。そのすぐ目の前には、細々と小川が流れていた。蒸し暑い森の中にあって、この場所は静かで清涼な空気に包まれている。
「香霖がこんな所をほっつき歩いてることほど珍しくはないぜ」
「別に、僕だって意味もなくこんな所にいるわけではないよ」
「じゃあ、何をやってるんだぜ?」
 霖之助の隣に腰掛け、疲れた足を休ませる。歩くことをやめた途端に吹き出す汗。冷たい風が彼女の首筋へそっと指先を走らせると、その心地よさにぶるりと体が震えた。火照った頬を、しっとりとした空気が包み込む。小川のせせらぎが耳元をくすぐるのもまた、何とも言えず気持ちよかった。
「僕かい? 僕はいろいろ蒐集(しゅうしゅう)してたのさ」
 そう言う彼の足元には、竹で編まれた大きな籠があった。覗き込んでみればそこには、森で集めてきたのだろう山菜や木の実、はたまた名前も用途もよくわからない珍妙な物などなどが山のように突っ込まれている。
 と、魔理沙の目が真ん丸に見開かれた。香霖堂店内よろしくごちゃごちゃとした籠の中にあるソレを見、鋭く指を突きつけた。
「あーっ!」
「ど、どうしたって言うんだ」
 耳元で叫ばれた霖之助が、眩暈を覚えたかのように目をしばたたかせる。そんな彼にはお構いなしに、魔理沙は籠の中からソレを引っ張り出した。
「香霖、ちょっ、いったいこれはどこで採ってきたんだぜ?」
 魔理沙の手の平にあったのは、立派な大きさの化け茸だった。
「ああ、それかい?」捲くし立てるような魔理沙の言葉に圧倒されつつ「それなら朝方、森の一角で採ったんだ。いろいろ試してみたいことがあってね。それがどうしたって言うんだ?」
 あっけらかんとして告げられる霖之助の言葉に、魔理沙の肩からガクリと力が抜ける。
 日々、森の中で茸の採集に勤しむ魔理沙である。どの茸が森のどこに群生しているか、そういった知識に関してはそうそう誰にも負けないという自信があった。そしてそんな魔理沙が見るにこの化け茸は、今朝方彼女が採集しに行き、先客にごっそりと持っていかれていた茸に違いなかった。
 肩の力が抜け、すると悲しくさえなってきた。なんだってまた、自分が得られなかった物を、こうしてまざまざと見せ付けられなければならないのだろう。決して霖之助に悪気が無いことはわかっていた。だからこそ、やはり自分の運の悪さがひたすら恨めしかった。
「ほんと、何一つ良いことがないな……」
「うん?」
 小さくぼやいたつもりが、どうやら霖之助にも聞こえてしまったらしい。しまった、と思いはしたが、一度聞かれてしまったと頭が理解した途端、口に封することができなくなっていた。
「今日は朝から、てんで良いことがないんだ。何をやっても上手くいかないんだよ」
 まず初めにそんな言葉が口を()いて出た。止まれなくなる。頭の片隅でそんな言葉が囁かれたが、その囁きを聞き入れることができない程には、すでに魔理沙の思考は平静さを欠いていた。
「……どうしたって言うんだい」
 そんな、優しい言葉をかけられた。身近にいて、いつでも頼りにしている霖之助にそう言われて、感情の吐露は止められるはずもなかった。
 大いに話した。今朝起きて茸の壊滅を目にしたところから、霊夢にありえない負け方をしたこと。喧嘩の仲裁に入って、まったくそれが意味を成さなかったことを。
 そんな失敗続きのせいで、妙に自分が落ち込んでいるということ。まるで自分が幸運から見放されてしまったように思えるということ。自分の未熟さを噛み締めているということ。
 まったく今日一日、気持ちが空模様にも似てぐずぐずと塞ぎ込んでいるということ。
「ははっ、なんなんだろうな。明日になったらコロッと忘れてるのかもしれないけどさ。それでもやっぱり、辛いっていうか……」
 この日味わった無力感を、果たして自分は綺麗に拭い去ることができるのだろうか。いつまでも心の片隅で、ずっとわだかまり続けるんじゃないだろうか。心の片隅を、いつまでもぐずぐずと曇らせるんじゃないだろうか。ついそんなことを考えてしまう。しかしそれも、仕方のないことだった。
 実際問題、自分は弱かった。人知れず努力し続けても、霊夢と戦って戦績は五分五分だ。魔法の開発だっていつまでも運任せな部分があるし、何よりも目標に届かない。
 ――――目標?
 ふと、そんな疑問が降って湧いてきた。自分でも戸惑ったが、けれど、日々躍起になりすぎていて、自らの目標を顧みることを長らくしていない。そのことに気付いた。ただ前進し続けることに夢中で、歩む道が本当に正しいのか否か、一瞬判断できないでいる自分に愕然とした。
「そこまで落ち込むなんて。らしくないじゃないか、魔理沙」
「う、うるさいぜ。私だって落ち込むことくらいあるんだ」
 変に気恥ずかしくなって言い返すと、霖之助が押し殺したような笑い声を漏らす。そのせいで余計に恥ずかしくなり、ぼりぼりと意味もなく頭を掻いた。
 と、そんな魔理沙の頭に、霖之助がそっと手を置いた。思わずぎょっとして、隣に座る彼の顔を仰ぐ。真鍮(しんちゅう)色の瞳と視線が混ざり合った。
「そんなに気分が優れないなら、魔理沙、君が空を晴らしてしまえばいい」
「……へ?」
「人の心と空模様とには、一定の深い関わり合いがあるからね。あまりかんかん照りなのも御免こうむるが、僕もこの、どんよりした曇り空は好きじゃない」小さく笑んで「君が晴らしてくれたなら、僕もいくらかスカッとするだろうね」
 ――――無理だ。
 言葉にできぬ思いが心の中で像を結ぶ。私の力では、魔法では、そんな大それたことをできるわけがない。それだから今日一日、こうして塞ぎ込んでいるんじゃないか。
 ――――魔理沙が空模様を変えてしまえばいいのよ。
 からかってるのか? 香霖、お前も私をからかうのか?
 ぐっと言葉を飲み込んだ。思わず怒鳴りたくなる気持ちを、必死に押さえつけた。
 わかってくれてないのか。私は辛いから全部話したんだ。なのにそれを、わかってくれてないのか。香霖なら、小さい頃から私を見てくれているあなたなら、わかってくれると思ったのに。
 わかってくれないのか?
「ふう」
 霖之助が小さく溜め息を吐いた。そうして彼はその面を引き締めると、魔理沙の瞳を正面から覗き込んで言うのだった。
「魔理沙は、どうして魔法使いになったんだい?」
 霖之助の言葉に頭が真っ白になった。自分でもその訳がわからなかった。しかしそんな自問に対する自答を見つけ出すよりも遥かに早く、胸の内を熱いものが満たしていった。
「君は昔、僕に言ったはずだよ。全てをかなぐり捨ててまで追い求めようとした目標を、語ってくれたはずだよ」
「――――――――――――」
 凪いだように真っ白だった思考が、ひどく強い想いによって急速に彩られていった。
 家を飛び出し、里から離れた自分。
 ただ目標のために走り続けた自分。
 常に一人だった。
 常に孤独だった。
 それでも戦い続けて、それでも自分は未熟だった。けれど決して手放せないものが、譲れないものが確かにあった。
 目標――――私だけの夢。
 寒さと苦しさと寂しさに震えて見上げた星空、その偉大なる輝き。
 いつかそれさえ超えてみせるぞ、と。
 いつかこの手で掴んでみせるぞ、と。
 私だけの奇跡。
 私だけの魔法。
 私だけの星空。
「だったら、こんなところで燻っているべきでは、ないだろうね」
 そう言うと霖之助は樹木から腰を上げた。大きな籠を背に負い、僕はもう帰るよ、とだけ言ってそそくさと歩き始めてしまう。けれどそれでよかった。
 魔理沙は立ち上がった。その手に、痛いくらいに強く箒を握り締めて。
 面には、猛々しいとさえ言える笑みが浮かんでいた。それはいつもの、小さくて未熟な、しかし夢に向かってひたすらに進む力と勇気を持った者だけが浮かべることのできる笑みだった。
 箒に跨る。その身が、跳ねるようにして宙に踊った。
 そうして彼女は飛び出した。今自分が向かうべき場所――――紅魔館へ。

★★★


 薄い霧に覆われた湖の上空を、魔理沙は一直線に翔けていた。そうして対岸に存在する洋館の異容がはっきりと確認できる位置まで進んだところで、ふと彼女は下方を一人で飛ぶ妖精の姿に気付いた。
 急減速し、行き過ぎた分をユーターン。そうして妖精――チルノの許へと翔け寄った。
「よう、チルノ」
「ひやっ!?」
 突如頭上から降り注いだ声に、面白いくらいびくっと肩を強張らせたチルノ。彼女は目を大きく見開いて空を見上げ、魔理沙の姿を見るやいなや表情を曇らせた。
 視線を正面に戻すチルノ。魔理沙はさらに降下して、通せんぼさながらにチルノの行く手を塞いだ。
「なにさ」
 一定の距離を取って立ち止ったチルノの、つっけんどんな言葉。魔理沙はそんな彼女を見つめながら言った。
「お前、この曇り空が気に入らないんだろ?」
「………………」
「仲直りはできたのか?」
「……してない」
 言葉から刺々しさが無くなった。代わって伝わってきたのは寂しさだった。
「もしこの曇り空が晴れたなら、素直に仲直りできるか?」
「え?」
 大妖精に仲裁を頼まれて、結局は失敗に終わった。何もできないまま、妖精同士の喧嘩すら(いさ)められない自分の不甲斐なさを思い知った。
 これは自己満足であるのかもしれない。あるいは自分で自分を慰めるための、失敗に対する清算でしかないのかもしれない。けれど今、目の前にいるこの妖精のために何かできることがあるのなら、自分はそれをやってやりたいと思った。今ならそれができると、保証も確証も無いが本気で思っていた。
 だから、
「私がお前に、最高の星空を見せてやるぜ」
「あ、あんたなに言って――――」
 それ以上の言葉を聞かないまま、魔理沙は再び湖上を驀進し始めた。氷妖精の戸惑う顔が、容易に想像できる。それが非常に愉快だった。
 まあ見てろよ。頬に笑みを刻んだ。それは愉快さゆえか、不敵な感情ゆえか、はたまたその双方か。
 そして魔理沙は、紅魔館に辿りついた。

★★★


「おーい、アリスとパチュリー! いるかー?」
 どこまでも広い空間に、所狭しと本が並べられていた。四方の壁一面に据え付けられた本棚は、頭上の遥か高くまで伸びている。
 使用人たちの努力ゆえか綺麗に清掃がなされていはしたが、陽の光が一切射さないそこは、歴史を刻んだ書物特有の香りと隠し切れないカビ臭さのせいもあって、どことなく鬱々とした空気が漂っている。
 しかしそんな雰囲気も、魔理沙は意外と好きだった。魔理沙の魔法研究にとってもこの大図書館は重要だ。頻繁に本を借りに来ているのだから、自然と愛着のようなものも芽生えてくる。
 整然と並んだ本棚の生み出す迷路を、慣れた調子で迷うことなく進むとやがて、部屋の中央部までやってきた。本棚に埋め尽くされた空間内において、ぽっかりと視界の開けた場所。そこには大図書館の主が愛用する大きな机と、多種多様なマジックアイテムが存在した。
 そしてこの日も、大きな机にはこの大図書館の主、パチュリー・ノーレッジの姿があった。彼女はまるでタイミングを見計らったかのように、魔理沙が彼女の姿を認めるのと同時に顔を上げる。
「こっそり本を盗まれるのも迷惑だけれど、堂々と入ってきて騒がれるのも面倒ね」
「よう、パチュリー。今日も元気そうでなによりだ」
「………………」
 パチュリーのすぐ傍らにはアリスの姿も。二人は今まさに、魔法研究に勤しんでいる真っ最中らしい。
「あら、魔理沙。結局来たの?」
「何かあったら来いっていわれたからな。何かあったから来たわけだ」
 言って魔理沙は、つかつかと机へと歩み寄った。心なしかパチュリーが顔をしかめているのも気にせず、彼女たちの研究成果を覗き込んでみる。広げられた書物は多種多様な言語で内容が書かれており、中にはまったく見たことのない文字の踊る物もある。
「なあ。二人はいったい、何について研究してるんだぜ?」
「部外者に研究内容を教えて聞かせるほど私は寛容でも愚かでもないわ」パチュリーの即答。「相手があなたなら特にね」
「そ、そうか……」
 早口に捲くし立てられ、思わずたじろいでしまう。アリスに視線を送ってみると、彼女も苦笑いを浮かべていた。
「――――で、あなたこそいったい何をしに来たのかしら?」
「あー、それな。まあ、なんていうかだな」
 話題が悪かったのかもしれないが、ただ話しかけただけで先の反応である。それが果たして、自分がこの大図書館に訪れた理由を伝えたところで、聞き入れてくれるだろうか。
 ちらりとアリスの様子をうかがう。目と目があった。こくりと頷いて魔理沙に言葉を促すアリス。魔理沙が何かを抱えているということを知っているだけに、彼女の反応は鷹揚(おうよう)だった。
 あーくそ、と思ってしまう。いつも通り無関心を決め込んでくれればいいものを、そんな反応をされたら、後に引けるわけがなかった。
「……単刀直入に言ってだ。二人に手伝ってほしいことがある」
「手伝ってほしい……?」
 パチュリーが怪訝な表情を浮かべる。無理もなかった。本の一冊も正しい手順を踏んで借りていかない魔理沙である。そんな彼女が手伝ってほしいことがある、などと言っても、ただただ怪しいだけに違いなかった。
「何を手伝うの?」
 そう聞いてくるアリスの顔にも、純粋な疑問の色がうかがえた。
 今から言おうとしていることは、確かに途方もないことだ。けれど言わなければ始まらなかった。
 言い渋っても仕方がない。魔理沙は一呼吸おいて切り出した。
「私と、空一面に星空を描いてほしい」
 アリスが口をぽかんと開けて、パチュリーはただでさえ眠たげな瞳をさらに細めて魔理沙を凝視した。そうして誰も何も言わないまま、ただ沈黙だけが流れていく。
「それはどうして?」
 アリスが静かに問うた。
「今日は七夕だろ? それなのに空が曇っているのが嫌なんだ。だから、私たちで空模様を変えて皆を驚かせてやろうと思ってな」
 ばたん、と。静かな大図書館に、大きく音が響き渡った。パチュリーが手元の本を威勢よく閉じた音だった。
 じろりと鋭い眼差しが魔理沙を射ていた。パチュリーに睨まれるのはある程度慣れていた魔理沙だったが、この時の眼差しは、どうしてかいつもと違うような気がした。顔を逸らそうにも、逸らせない。蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう、とも言えたが、むしろその鋭い眼差しに吸い込まれるようだと言った方が正しいかもしれない。そんな不思議な感覚に襲われた。
 パチュリーが静かに口を開いた。
「いま私たちは、暦と魔法との関連性を調べているの」
「暦……?」
「そうよ。過去には節分という季節と季節の堺が世界の要素にどのような影響を与えるかを調べたりもしたわ。そして今日は七夕。七夕という節句と天体とは民話的観点から見ても不可分なもので非常に興味深かった。だから正直なところ今日の曇り空は私としても面白くはなかったの。だけれどね」そこで言葉を区切り、「わかるわよ、魔理沙。あなたの行動原理がそんな安いものではないことくらいはね」
「………………」
「人を驚かすだなんてくだらない事のためにそんな大仕事へ協力するつもりは毛頭ないわ。それにあなただって普段から、そんなことをして楽しんだりはしていないでしょう? 本当の理由を言いなさい。でなければ私は動かないわよ」
 見透かされている。頑張っているところを、真剣に何かへ向き合っているところを見られたくない。そんな思いで吐いた嘘だったが、目の前の魔女はそれが嘘であると完全に見抜いていた。途端に胸が苦しくなった。嘘を吐いてしまう自分に、逃げようとしてしまう自分に自分自身が押し潰されそうになった。
 こんなところで見栄を張っているようでは、到底掴めない。本当に追い求めているものならば、たとえ格好が付かなくとも、そのことからすら逃げずに進まなくてはならない。貪欲でもいい。浅ましくてもいい。
 成せることを成せ。でなければ成したいことなど成せないはずだ。
「――――夢があるんだ」
 眼前の魔女に告げる。
「私だけの奇跡を起こしたいんだ。幻想郷の何よりも綺麗な私だけの星空を描きたいんだ」
「……それなら、なおさら私たちに協力をもとめるのはおかしくないかしら」
「わかってる、それはわかってるんだ」強く告げた。「でも、今の私は未熟だから、一人じゃ到底そんなことできないんだ。そんなことはわかってるけど、だけど今日一日いろんなことがあって改めて自分の未熟さを思い知って。けど、今そのことから逃げたらずっと夢になんて手が届かないような気がしてさ。これが今の私が成せる全部なんだ。ただの魔法使いにできる最大限なんだ。だから、協力してくれないか。私と一緒に奇跡を起こしてくれないか?」
 パチュリーの魔理沙を見つめる眼差しが一時、さらに鋭さを増したような気がした。今の言葉を受けて、相手を見定めているのだ。
 こちらも強く見つめ返した。この言葉は偽りではないと。この言葉こそが私の想いなのだと。
「あの魔理沙にこんな頼まれ方をされてしまったらねぇ」アリスは溜め息交じりに、「そうじゃないかしら、パチュリー?」
 七曜魔女は小さく息を吐いて瞳を閉じた。その頬にもまた、やれやれといった具合の笑みが浮かんでいる。
 その手がさっと宙を滑った。途端、召使が主人の命令一つで忙しなく動き回るように、卓上の書物が一斉に動き出す。
 ある書物たちはたちどころに積み重なって卓上に空間を設け、ある書物たちはばらばらと目まぐるしい速さでページを捲り、ある書物たちは独りでに本棚へ飛んで行ったかと思うと、それと代わって別の書物たちが主の許にまで飛んでくる。
 パチュリーが言った。
「そうね。魔理沙がここまで愚直だと、下手な呪術より不気味だわ」この日初めての笑みを見せて、「夜まで時間も無いし、急ぐわよ」

☆☆☆


 陽は落ちた。相も変わらず雲に顔を隠したままの天蓋。光源と呼ぶべきものがほとんど存在しない湖の畔は、沈むような暗闇に包まれている。
 三人は湖畔で、おのおの準備に取り掛かっていた。とはいえ事前準備はほとんどアリスとパチュリーが行うのだから、魔理沙にできることと言えば怒られない程度に二人へちょっかいを出すか、ただ空を見上げているくらいのことだった。
 空に幻想の天体を描いて、その天体が世界を構築する要素にどのような影響をもたらすか。そこから逆算的に本物の天体と要素との関連性を調べて……、云々(うんぬん)。そんな小難しいことを言っていたパチュリーは、先ほどからぶつぶつと呪文の詠唱をしっぱなしだ。
「――――出来たわ」
 アリスとパチュリーが同時に言う。魔理沙は紅魔館から勝手に引っ張り出した椅子から腰を上げ、二人の許に歩み寄る。
「時間帯は夜で、今宵は新月」灯された蝋燭の火を頼りに本を捲るパチュリー。「七大元素を用いるまでもないわね。日と月は不要だろうから、場はオーソドックスに五大元素で構築したわ」
「ほう、よくわからんが続けてくれ」
「魔理沙……あなたがその調子だと計画は上手くいかないわよ?」
 言ってパチュリーは、今し方まで魔理沙の座っていた椅子に腰下ろした。吸い付くように背もたれへ体重を預け、小さく肩を上下させている。普段から大図書館に籠りっぱなしの彼女にとって、野外での活動はそれなりに堪えるらしい。
 そんな彼女は、魔理沙の立った一帯を指さして言う。
「この一帯に幻想郷の縮図を描いたわ。霧の湖から魔法の森、里、天上から地底まで全てを表す要素でね。あなたは今、小さな幻想郷の中心点に立ってるの」
 どこまでも暗い湖畔。魔理沙が周囲に視線をめぐらすと、暗闇の向こうに所々、小さなきらめきが存在するのがわかった。賢者の石だ。
 そして彼女の足元を、パチュリーの記した複雑怪奇なことこの上ない白の紋様が駆け巡っている。その紋様は暗闇のあちこちへ、あるいはあちらこちらから、紋様と同色の直線で繋がっている。
 パチュリーの言うとおり場の中心点に立っているのだろう魔理沙は、確かにその肌で大きな魔力のうねりを感じていた。ひしひしと伝わる目には見えぬ圧力に、夏の暑さによるものとはまた異なる汗が額に浮かんだ。
「それで」アリスがパチュリーの言葉を引き継ぐように、「私が要素同士を繋げて自然の関係性を表し、場と幻想郷とを類似させたわ」
「で、私はこの場の中で魔法を使えばいいんだろ?」
「ええ、そうね。場の夜空に上手く星を描くことができたなら、あなたの考え通り、類似性によって本物の空にも星を描き出せるわ。たぶん」
「た、たぶんってなぁ」
 真顔でそんなことを言われると、笑えばいいのか困ればいいのか反応に困る。ただでさえ幻想郷の空に星空を描くという、途方もないことをしようとしているのだ。不安要素は一つでも減らしたい時に、術者にそんなことを言われたらどうしようもない。
「私たちだってこんな試みは初めてなんだから。ねえ、パチュリー?」
「その通りだわ。だから、誰も確かなことは言えないの」けれど、とパチュリーは言う。「魔理沙。あなたは奇跡を起こしたいんでしょう?」
 パチュリーとアリス。二人の瞳と魔理沙のそれとが交差した。
 成せることは成した。あとはあなただけが成せることを成す番だ。瞳が、その微笑みが、魔理沙に強く語りかけていた。
「――――ああ、そうだな」
 アリスが退いて、椅子に腰掛けるパチュリーに並んだ。たったそれだけで、この場にはもう自分一人しかいないことがわかった。縮尺された幻想郷という世界の中心に、私は一人で立っている。
 今この時、この場所にいるのは私一人で、引き金を引くのは私一人で、不意に不安という名のよく慣れ親しんだ感情が、自らの胸の内に沸き起こるのを感じた。思えばいつも、私の傍らにはこの感情がいたかもしれない。魔法使いになることを目指し始めた時も、家を飛び出した時も、人知れず特訓に明け暮れるときも、常に不安の感情が自分自身へ付きまとっていたように思える。
 越えなければならないと。漠然として目の前にある壁を越えなければならないと。不安と一人で戦い続けていた。
 常に一人だった。
 常に孤独だった。
 ――――できるのか?
 そんな囁きが脳裏に響いた。不安な時にはいつでも聞こえてくる声だった。
「じゃあ、いくぜ」
 けれど今、目の前には仲間がいた。引き金を引くのは私一人でも、最後に戦うのは私一人でも、それを見守ってくれる仲間が目の前にいた。音の波に溺れて暗闇に押し潰されそうになっていたあの頃の自分は決して持ちえなかった、確かな成長の証がそこにいてくれた。
 札を一枚取り出した。小さく未熟な魔法使いの、努力と想いと夢が詰まった札を。
 深く息を吐いた。肌に感じる魔力の流れを、強く強く意識した。息を吸うごとに体内を熱が駆け巡った。今ここにいるのだと、そう宣言するように自分と場との魔力を同期させる。
 どくどくと。耳の裏で響く拍動のテンポが徐々に速まってゆく。どんどんと感情が昂っていく。
 ――――魔理沙が空模様を変えてしまえばいいのよ。
 変えてみせるさ。
 箒に跨った。一息に宙へ飛び上がった。ぐんぐんと空へと昇っていった。
 そして叫んだ。
「魔符!」
 光が爆ぜた。札を手にした右手に、とてつもない熱を感じた。
 抜けてゆく。何かが自分の中から抜けてゆく。直感的にそう思った。手にした札から、無差別に光が溢れ出ていた。世界のリズムから突き放される。場を構築する魔力の流れから弾き飛ばされそうだった。天蓋を穿(うが)つだけの何かが足りなかった。
 ちっぽけな私がいくら足掻(あが)いたところで、意味なんかないのだろうか。こんな私が頑張ったところで、無力な私が頑張ったところで、奇跡は起こってくれないのだろうか。やはり私には大きすぎた目標なのだろうか。
 そんなのは嫌だった。こんなにも素晴らしい世界に生きていて、夢さえ追えないまま生きるのは嫌だった。ここは幻想郷だ。全ての夢が現実となる世界だ。大きく果てしのない夢を形にすることができる世界なんだ。
 ――――描くんだ。
 強く箒を握り締めた。
 ――――手に入れるんだ。
 高らかに宣言した。
私だけの星空を(ミルキーウェイ)ッ!」
 その瞬間、自分の中の何かが噛み合う音がした。失われる一方だった何かが私を満たしていくのを感じた。
 右手の中で札が弾け飛んだ。あまりの眩さに一瞬目が眩んだ。直後、箒がとんでもない推進力を得て進み始めた。振り落とされまいと、私自身の意志で進むのだと、両手で柄を握り込んだ。
 光があった。どこまでも眩い光があった。
 一切の暗闇を切り裂くように一筋の光が世界を穿った。空翔ける魔理沙の尾を引くように空へ無数の星屑が溢れ出した。そうして生まれた星屑の一つ一つが、流星の如く地上へ降り注ぎ、そして弾けた。
 弾けた光は煌々と輝く幾千幾万もの光の粒子に還元された。粒子は七色の光を伴うと、一斉に空へと昇ってゆく。まるで光の雨だった。地上から空に向かうのだから本来その言葉は不釣り合いだが、そう表現せずにはならないほどに途方もない数の光の筋が視界全体を覆い尽くした。
 地上の二人の顔を、空を飛ぶ魔理沙の頬を、光は明るく照らし出した。そうして全ての光が空に吸い込まれてゆき、一点に凝集されてゆく。光点は自らの内側へどんどんと収縮し、
 次の瞬間、華々しく開花した。
 空気が震え、雲が掻き消された。まるで花開くように四方八方へ広がった七色の光が、弾け、交わり、瞬いて天蓋へ無数の星々を描き出してゆく。
 そしてそんな星屑の色とりどりな瞬きで溢れた空に、白銀の輝きに満ちた大河が遥か悠々と流れていた。
「ああ……」
 熱い吐息が零れた。これまで見たこともない幻想的な星空に、ただただ見惚れていた。
 手を伸ばした。星の瞬く夜空に向かって。遠かった。星空はあまりに遠かった。けれど暗闇に沈んでただ空を見上げていたあの頃よりはずっと、自分はこの星空に近い場所にいる。そんな気がした。
 ふっ、と体から力が抜ける。手から自然と箒が離れた。
 落ちてゆく。引力が私を手招いている。心地よい疲労感と、脱力感。それでも差し伸ばした手を引くことはしなかった。そうしていればきっと、この偉大なる星空が私を抱き締めてくれる。そんな気がして。
「ちょっと、魔理沙。なに脱力し切ってるのよ」
 ふわりと。柔らかなものが魔理沙を包み込んだ。温かな何かが私を抱き締めた。
 アリスの微笑が魔理沙の顔を覗き込む。その細い腕が、そっと魔理沙を抱きとめていた。
「この程度のことで魔力切れを起こしているようではまだまだね」
 そのすぐ隣には、箒を手にしたパチュリーの姿。口では辛いことを言う彼女だったが、星空を見てその表情は少なからず興奮しているように見えた。
 二人の魔女に付き添われ、満天の星空に見下ろされ、ゆっくりと地上へ降りてゆく。どこまでも輝かしくどこまでも優しい光に包まれて。
 そうして僅かに覚束ない足取りで地上に立ち、もう一度空を見上げた。静かに揺蕩(たゆた)う暗闇に身を浸しながら、それでも鮮烈なまでに美しい星空を見上げた。
 いつかもこうして、小さな魔法使いは地上から空を見上げていた。暗闇に包まれながら、夜空を見上げていた。
 今はまだ未熟だった。今ここにいる私にとって、思い描いた夢は果てしなく遠いところにあった。けれどあの時は雲間からしか覗くことのできなかった夜空が、今はこうして煌々と私の頬を照らしている。
 この幻想の星空だって、決して一人きりの力で描き出したものではなかった。人の力を借りなければ決して成し得ない奇跡だった。それでも一人で震えていたあの夜の自分には、決して成し得ない奇跡だった。こうして共に奇跡を起こしてくれた友人だって、全ては私が成長した証だった。
「見てろよ」
 そう小さく呟いて、両目いっぱいに空の輝きを湛え、霧雨魔理沙は力強く微笑んだ。
 今は不可能でも、いつかきっと、必ず、もっともっと輝かしい私だけの奇跡を、魔法を、星空を、この手に掴んでみせるんだ。



おしまい