右の手をかざした。手の平の先に、崩壊寸前の壁にもたれ、早くも満身創痍といった具合の巫女がいる。
 先の一撃を一身に受け切って、しかし巫女は生きていた。敵と対峙したまま満足に動くことも出来ないほどの衰弱。あまりに痛々しかった。しかしレミリアをめ付ける眼光は、依然として煌々と力強い。いや、ともすれば初めて互いを見交わしたその時より、その瞳に秘める意志の力は強くなっているかもしれない。もしや、レミリアの攻撃をまともに受けた今になってようやく、()()()()()とでも言うのだろうか。
「ふふっ……」
 楽しい。
 相手が真っ直ぐであればあるだけ、それを()()()()()()に歪めてやる瞬間を思い描くことが、たまらなく楽しかった。
 一発の牙弾が指先にともった。血濡れておぞましいほどに秀美しゅうびな紅――――。
 ドッ
 半拍にも満たない須臾しゅゆののち、牙弾は容赦無しに放たれていた。空気の壁を裂く破裂音が響いたその時には、すでに牙弾は巫女の眼前にまで迫り――――、
 振り返りざまに右手を振るった。背後から飛来した()()が掌を突き破る。鋭利な刺激が雷電の如く爆ぜ、掌から腕へ這い上がるように焼けるような痛みが生じた。
 手の甲から()()が突き出ている。()だった。
「ははっ!」
 興奮に心拍が荒れた。ただれるような喜悦に、腕を遡った霊力が与えてくる悪熱すら消し飛ばされる。
 そこに――――振り返った先に、()()()()()。数瞬前に放った牙弾に撃ち抜かれるはずだった巫女が、目の前で宙に佇み、こちらへぬさを突き付けている。
 ()()()()()。いったい、どういったわけで巫女はそこにいるのか。紅魔館のメイド長のように時間を操作したわけでもあるまい。なのに、どうして?
「あはっ」()()()()()。「あはははははははははッ!!」
 掌に突き刺さったままの針を握りつぶした。体内を犯していた霊力の流れが断たれるのと同時、飛膜の翼を力強くはばたかせる。爆砕音にも似た羽音を轟かせ、その身が一瞬で巫女に肉薄する。
 すでに傷口の塞がりきっている右腕を突き出す。素早く身を逸らした巫女の髪を、五本の指が絡め取る。それでも巫女は横に跳んでいた。()()()()。髪が束になって引きちぎられる音に、息苦しいほどの快感を覚えた。
 苦悶の表情を浮かべながら宙を飛ぶ巫女を目で追う。まったく弱り切っているのが明らかだった。やはり、先ほど受けた攻撃が相当応えているのだろう。宙へ浮くだけの余裕があるように見せて、その実、宙に浮かなければその体を自立させることすらままならないのだ。
 それでもこの速さか。次々に放つ牙弾を確実に避けていく巫女を見て思った。
 博麗霊夢。いったい何が彼女をそこまで駆り立てるのか。
 ()()()()()
 右手を大きく振るった。まるで投球を行うような動作に続いて、一発の牙弾が放たれる。目にも留まらぬ速度で迫るそれを正面に見据え、巫女は幣を一振り。そばにあって針弾を放ち続けていた陰陽玉が、これまた真っ直ぐに牙弾目がけて動き、真正面から衝突した。牙弾を構成した妖力と陰陽玉とが一瞬交じり合い、妖力が四散する圧力にのせて粉々に砕けた陰陽玉が矢のように四方八方へ飛び散った。
 レミリアはその瞬間、巫女に向かって突進していた。陰陽玉の破片の一つが、その肩に直撃して肩の骨を砕く。狂おしいほどの痛みは、しかしすぐに消えていた。巫女もまた、凶器と化した破片の数々には目もくれず、静かに瞑目していたからだ。新しい一手が来る。そのことが酷く心を躍らせた。
「夢境!」果たして捧げられた祝詞スペル。「二重大結界!」
 巫女が目を見開いたのと同時に、レミリアは自身を取り巻く空気に変化が起こるのを感じていた。全方位を何か(、、)が囲み込もうとしている。()()が形成される前にその()()を引き裂かんと右腕を突き出した瞬間、前腕が()()によって縛られた。
「ぐッ……!?」
 虚空に突き出した右腕が、ある一点からびくともしなくなっていた。否、そこに在るのは虚空ではない。不可視の()()が在るのだ。前腕が強固な結界に包み込まれるようにして、完全に固定されている。
 結界の数々が見る間に形成され、レミリアを不可視の檻に閉じ込める形となっていた。ぐにゃりと、眼前の景色が大きく歪む。巫女が張った境界が光の透過さえ歪めている証拠だ。
 すぐさまレミリアの躰に異変が起こった。全身に嫌な圧力を感じていた。しかしそれは、霊力などといった特別な力によるものではない。もっと単純な力によって全身がされている。
 ()()。レミリアとともに結界によって外界から遮断された空気の塊が、レミリアの躰を強く圧迫している。そんな現象が起こる理由は酷く簡単だ。空間を閉ざした結界の檻が、内側に向けて縮小しているのだ。
 単純に考えて、このままだと押し潰される。巫女の護符を喰らうでも、針弾に刺し貫かれるでもなく、空気の圧縮によって負かされる。なんともふざけた話だ。そんな馬鹿げた事があっていいわけがなかった。
「やってくれるよ」
 呟きとともに、不可視の檻を莫大な妖力が満たした。閉ざされた空間にあって、その濃度は見る間に高くなっていく。零へと縮小せんとする結界を、内側から妖力でもって押し広げようとしていた。
 バチッ
 空気が爆ぜた。瞬間、全方位を囲う結界から、レミリアが放つ妖力を上回ろうとする量の霊力が溢れ出した。
「――――――ッ!!!?」
 レミリアの小さな体躯を雷撃が一直線に貫いた。それほどの衝撃が襲い来る。右腕にきつく喰い込んだ結界から、レミリアの躰に霊力が流れ込んでいた。掌を貫いた針弾が与えたそれを遥かに上回る量の霊力。妖力による拮抗に反応した結界が、レミリアを内側から引き裂こうとしていた。
 衝撃による意識の間隙かんげきをつき、檻が更に内側へ縮小した。みしみしと、吸血鬼の躰が小さく軋む。あまりに強力な束縛だった。その束縛に抗おうとすればするほど、空間内では妖力と霊力の拮抗による火花が散り、体内になだれ込む霊力の量は増していく。
 結界の外が目に入った。捻じれた光景の中に、確かに巫女の姿を見た。その顔は酷く歪んでいる。レミリアが抗うだけ、巫女の躰にもまた莫大な負荷がかかっているのだと知れた。
 宙に結ばれた印の中央に立ち結界を操る巫女。その視線が、ふとレミリアのそれと触れる。()()()。巫女が笑った。玉のような汗を満面に吹き出しながら、挑発するように笑って見せた。
 ()()()()()
 閉ざされた空間に稲妻が走った。妖力と霊力との衝突による反応が、最高潮に達していた。
 力任せに右腕を引く。()()()。にぶく重たい音が響いた。固く絶対的に閉ざされた結界が、レミリアの腕力によって僅かに歪んだ音だった。
 更に右腕を引いた。
 ()()()
 右の腕と結界、双方から嫌な音がした。境界の向こう、巫女が目を見開くのがわかった。それだけ予想外で規格外の行動だった。
 それまで空間全体に向けて放っていた妖力の方向性を、前方の結界のみに転換させる。
 ()()()()()。いよいよ結界が外へ膨れるのがわかった。また同時、妖力による抵抗を失った残り全方位の結界が、見る間にレミリアを押し潰さんと縮小していく。全身を締めつける圧力が限界に達しようとしていた。
「あああああああああああああああああああッ!!」
 空間全体が痺れるほどの咆哮。横殴りに振るうように、右腕に渾身の力を込めた。
 バキン。右腕が、前腕の半ばから圧し折れた。気が遠のくほどの痛みが脳天を突き抜ける。しかし、目の前の結界は完全に砕かれていた。圧縮される一方だった空気の塊が結界の裂け目から吹き出す。爆風ともいえるその勢いに乗せ、レミリアは檻の外へ飛び出した。
 圧し折れた右腕を振り上げ、素早く振り下ろした瞬間にはもう、その腕は元通りに再生されている。
「ちっ!」
 爪甲から放たれる妖力の刃に、巫女が結界を展開させて抗った。
「冥符」嗜虐的に吼える。「紅色の冥界ッ!」
 無数に降り注いだ牙弾が、巫女の張る結界に次々と牙を立てた。間断なく降りしきる暴力のつぶてが、強固であるはずの結界へ見る見るうちに亀裂を走らせる。
 結界の維持に全力を注いだまま、巫女はその場で唸った。今、結界の維持以外の行動に移れば、自らを守る防壁は一瞬で崩れ去る。それだけの威力であり、物量だった。
 しかし、牙弾はただ真正面から押し寄せるだけではない。
「っ……!」
 まるで真正面からの猛襲を追うようにして、牙弾の嵐が巫女の左右から迫っていた。
「霊符っ」
 三方からの攻撃を同時に凌ぐことは不可能だと判断した巫女が叫んだ。その眼前に張られた結界が、まるで硝子の割れるような高く澄んだ音とともに崩壊。境界の残滓ざんしすら呑んで、紅色の暴力が今まさに巫女をも呑まんとした時。
「――――っ」
 にわかに巻き起こった光に、レミリアは顔を背けた。
 ――――夢想封印。
「散!」
 巫女の纏う霊力が光となった。質量を持った光は、巫女の壮烈そうれつ一言いちげんによって散開。血の弾雨を舐めるようにして払拭すると、冥府スペルを無に帰した勢いのままその軌道をレミリアへと向ける。
 圧倒的な光量――さながら怒涛どとうの如く――ビュン!――羽ばたいた――吸血鬼、その怪力による猛スピード――追いすがる光弾――()()()()()――僅かにかすっただけで焼けるような熱さ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――やがて光は四方八方へ散り散りに――しかし。
「っ――」
 鼻先を針弾が横切った。急減速し、視線を針弾がやってきた方向へ。息つく暇とてなく、更に針弾が迫り来た。巫女の立て続けに繰り出す弾幕を確実に避けてゆくも、しかしレミリアはそこで、自分が壁際――――ステンドグラスの側へと徐々に後退していることに気付く。その事実に、レミリアは自然と弾幕の向こうにいる巫女へその眼差しを強く投げかけていた。
 霊夢は宙を翔けた。複数の陰陽玉が針弾を仮借なく放ちながらその身を取り巻いている。
 全身全霊の攻撃を。
 まるでレミリアの眼差しの強かさに呼応するが如く、ただその想いが既に疲労しきった霊夢自身の身を、一己の弾丸と化しめて吸血鬼のもとに向かわせていた。我が身の持てる全ての力を出し切らなければ、この吸血鬼には勝てない。他の妖怪とは比較にならない妖力、彼女自身の消耗、そして何よりこれまで繰り広げた戦闘の全てが、彼女にそう強く思わせた。
 吸血鬼が腕を振り上げる。霊夢もまた護符を取り出していた。
 そして吸血鬼の掲げた手の先、捧げ持つようにして形成された牙弾が腕の振り下ろされる勢いのままに放たれる。
 迎撃げいげき――一息に印を結んで結界を形成させたその瞬間、真正面から牙弾の直撃を受ける。
「ぐっ……!」
 歯を食いしばった。互いを圧潰あっかいさせんばかりに力み切った奥歯の間から、酷く熱を帯びた息が零れ落ちる。幣を平行に構えて結界を支える両手が悲鳴を上げた。既に限界を迎えつつある体が、牙弾の勢いに押し潰されようとしていた。
 結界へ更に霊力を込めた。霊力と妖力との反発を利用して敵の攻撃を押し切ろうとした時、それはにわかに起こった。
 ()()――力と力の相殺――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
 ()()――()()()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
 吸血鬼の腕が再び振り上げられた。見る間に形成される牙弾の数々。
「あははっ!」
 強烈な風に煽られながら、レミリアは喜色に目を見張った。
 ――――花。
 何があろうと馬鹿正直に立ち向かってくる巫女の姿は、強風に吹き付けられる一輪の花を思わせた。圧倒的な力を前にその躰はきしみ、たわみ、もう一押しすればいとも容易く圧し折れてしまうだろうひ弱な存在。しかしそれでいて、花はその場からただの一歩も退けず、退かず、その全身でもって迫る脅威に対峙している。
 それが、そのことが、レミリアにとってはたまらなく愉快だった。博麗の巫女としての立場があの敵を駆り立て、博麗霊夢という自己の意志が彼女の体を突き動かしている。凄絶せいぜつな状況下において初めてほとばしる、その壮絶な生命の叫び声が、刹那の輝きが、五百年という時を生きる吸血鬼にとってこの上ないほど輝かしく、愛らしいとさえ言えた。
 もっと――――もっと魅せてくれ。
 残酷なまでに純真な想いのまま腕を振り下ろした。無数の牙弾が一斉に解き放たれる。
 ドウッ
 光が弾けた。牙弾の一つ一つが、同時に展開された複数の結界と衝突したのだと知れた。妖力と霊力とのせめぎ合いが、激しく火花を散らして空間を彩った。と、その時、
「むっ……!」
 結界と牙弾とが拮抗する合間を縫って飛来した一発の針弾。レミリアが驚異的な反射でもって針弾の()を右の手刀でもって払うと、針弾はいとも呆気なくその場で粉砕。粉々に砕け散ったかけらの一つ一つが、眩い光の粒子に還元された。
 清く輝く光の粒子が、太陽の光にも似てレミリアをさいなんだ。急激な明暗の変化によって瞬間的に視力が奪われたその時、手刀を放ったことで突き出される形となった右腕に衝撃が走った。
 眩さにくらみ白く濁った視界の中、レミリアは自分の腕に無数の護符が()()()()()()()様を見た。
 ――――やられた……!
 ほとんど無意識の動作で、自由の利く左手で護符を引きちぎろうとした。しかし、その手が自由を奪われた腕に触れることはなかった。
 互いの吐息さえ届きそうな距離感――――目の前に博麗霊夢がいた。
 何故か宙で静止したままの左手に、かすかな温もりを感じた。吸血鬼の、とりわけ光に弱い視力がようやく回復し始める。そしてレミリアは見た。
 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()
 あの瞬間――牙弾と結界が再度衝突を起こしたあの瞬間、この巫女は針弾によって自分の視力を奪うのと同時に、妖力と霊力とが混沌としてうねり合う渦中を突破し、こうして呆れるほど直接的にこちらの動きを封じに来た。
 自分の足ではまともに立てもしないほど、簡単に手折たおられそうなほどボロボロなくせして。
 目の前の巫女を振り払うことなど簡単だった。しかしそれができなかった。
 でたらめな唸り声を上げていた。大きな翼を広く広く拡げていた。
 それは天敵に対峙した卑小な動物のとる行動に似ていた。そのことが悔しくて、嬉しかった。
 光が灯った。酷くくすんだ光だった。自分が展開させた弾幕、それが放つ歪んだ輝きだった。
 かなわないな。
 自分には、目の前の巫女が放つような澄んだ光は生み出せそうにない。純粋にそう思った。
 こんな私に――吸血鬼に――自ら触れてくる人間になんて出会ったためしがなかった。皆、吸血鬼を恐れ、嫌った。しかしこの人間は違う。今まさにこの人間は、私と対等に触れ合っている。私の()()()()を真正面から全力で叩き潰そうとしてくれている。全てが全力であるが故ここまで混沌とした戦いは初めてだった。
 ――――これが幻想郷なのか。
 ならば、それならば――――この()()()()を最後まで押し通させてもらおうか。
 弾幕が一斉に動いた。全ては、一切の無駄なく巫女一人を狙っていた。
 陰陽玉が旋回した。牙弾の直撃を受けて粉々に砕け散った。
 護符がひるがえった。牙弾に食いちぎられてバラバラにばら撒かれた。
 結界が張られた。牙弾とぶつかり合いはらはらと破られた。
 そしていつしか二人の周りには、きらきらと色鮮やかな光が舞っていた。
 息を呑む美しさだった。
 朱い空間にあって青白く灯る光。その輝きを瞳に湛え、巫女が叫んだ。
「集ッ!」
 宙でひらめく光の全てが、レミリアと霊夢の二人を目がけて()()()()()()
 ――――夢想封印・集。
 質量を持った光が容赦なく二人に迫った。
「くそ――――」
 全ての音が呑み込まれた。書斎全体が白く染まった。
 そして爆発。無尽蔵な光の氾濫が起こる。その衝撃にシャンデリアが悲鳴を上げ、巨大なステンドグラスは一瞬で叩き割られた。
 館全体が大きく揺れ、轟音に空さえ震える。ステンドグラスのきらめきが、こぬか雨のように静かに降り注いだ。細やかなガラス片のぶつかり合う音が、シャンデリアの擦れ合う音が、しんと澄んだ音を奏でる。
「はぁ……はぁ……」
 衝撃がいんいんと空気をしびれさせるなか、二人はステンドグラスを突き破って屋外に飛び出していた。
 天蓋には、僅かの欠けもない月が静寂に輝いている。冷たい月光を孕んでぼんやりと薄気味悪く輝く紅霧が、空を広く覆っていた。
 風が吹いた。夜の風は僅かに妖気を含んで二人の髪を弄んだ。
「今のは結構こたえたよ、()()
 レミリアは月の光を浴びながら笑った。その瞳は幼さにきらきらと輝いていた。
「まったく、あんたらは体が丈夫に出来てていいわね」
「降参するかい?」
「まさか」
 幣を構えて、「次で終わりよ」
 翼を広げて、「そうしましょ」
 月は、平等に幻想郷を見下ろしていた。
 少女たちの紅く彩られた戦いは、人知れず終曲へと走り出す。