-壱-

 長く長い朱の廊下を彼女たちは真っ直ぐにけていた。
 壁に等間隔で設けられた燭台しょくだいに照らし出された二人の横顔は、すっと研ぎ澄まされている。引き締まったその頬には、しかし余計な緊張の色は見られず、窓の外に覗ける紅い空を映し出す瞳には、どこか溌剌はつらつとした強い輝きがあった。
 延々と続く廊下。朱色の絨毯じゅうたんに壁、天井。どこを見渡しても朱すぎるその光景に、ともすれば凶悪な悪魔に丸呑みにされ、その食道を転がり落ちているような錯覚さえ覚えさせられる。しかしその錯覚はある意味で、決して的外れな感覚ではなかった。
 ――――紅魔館。
 紅い悪魔が住まうという洋館。彼女たちはまさに、屋敷に足を踏み入れた瞬間から、その館主がいる深部――世にも恐ろしい吸血鬼が牙剥き血をすする中心点へと、決死の道を転げ落ちているに等しかった。
「ったく、どこまでも長い廊下だぜ」
 金の長い髪をなびかせつつ、箒にまたがった魔理沙は言う。放っておけば欠伸でもし始めそうな彼女の間延びした声に、傍らを飛ぶ霊夢は溜め息をこぼした。
「魔理沙。言っておくけど、今はそんなに呑気にして、あとあと足手まといになるのだけは勘弁してちょうだいよ?」
「ははっ、何を言ってるのかしら。霊夢こそ、私の弾幕パワーに手も足も出せないで置いてきぼり喰らわないようにな」
「食べれるもんなら、置いてきぼりだって喰らいたいわよ」
「異変を解決したら、飯くらい食えるから我慢だぜ……」
 冗談とも本気ともつかない霊夢の言葉を複雑な気持ちであしらいつつ、魔理沙はひたと行く手を見据えた。
 朱い廊下。その長さのあまり、視線のずっと先は暗闇に没していた。まるで自分たちを呑み込まんとするようなその暗がりに、彼女の心中は無用にざわめいた。彼女とて、決してただ呑気に飛んでいるわけではない。今はまだ見ぬ館主、その存在が無意識に放っているのだろう館全域に満ちる張りつめた空気に、下手をすれば箒の進行方向を切り返したくもなる。
 しかしそうはいかない。誰に言われたわけでもない。ただ、今幻想郷を密かに脅かしている異変を解決しなければ。彼女の心の底からふつふつと湧きあがるその想いが、箒の空飛ぶ速度を更にさらに速めていくのだ。
 不意に、燭台にあって明々(あかあか)と廊下を照らしていた蝋燭ろうそくの炎が揺らめいた。実際としては炎の揺れなど極めて微細なものだったに違いない。しかしその瞬間、二人はそんな僅かの状況変化にさえ確かな違和感を感じた。
「ほんと、りないのね」
 虚空から声がしたのはその時だった。そして、
 ――――()()()
 細かな何かが噛み合う音。
「ッ!」
 風鳴りさえ響かせ廊下を進んでいた霊夢と魔理沙が、唐突に減速しつつ、左右に割れるようにして()()を避けていた。
「私がどれだけ廊下を引き延ばしても、馬鹿みたいに進み続けるんだから」
 進む二人の前へ忽然こつぜんと姿を現したのは、朱い世界にあってその全てを穿うがつような深い青と白のメイド服に身を包んだ、銀髪の少女であった。
 歳は霊夢と魔理沙、どちらよりも上といった印象がある。すっと高い背に端整な造りのおもて。頬には薄く美麗な笑みが浮かんでいるが、その赤い瞳には冷淡な感情がのぞけた。
「なんだなんだ、お前は。危うくき殺そうかと思ったぜ」
「そこのメイド。いったい何のマネかしら?」
 どことなく嬉々としてそううそぶく魔理沙を脇へ押しやり、霊夢は少女へと胡乱うろんな視線を送る。そんな彼女へ、これもまたどこまでも冷淡な光を湛えた瞳を、少女は静かに向けている。
「主人でもない人に従者メイド呼ばわりされたくはないわ」胸元に手をやり。「十六夜咲夜。それが幻想郷での私の名前よ」
 服の端を軽く摘み、丁寧にもお辞儀をして見せる咲夜。社交界云々といった物に一切縁のない二人にすらわかるその寸分のブレもない所作に、霊夢の面は苦虫を噛み潰した様な不快感に歪む。何がどうというわけでもないが、こういった馬鹿丁寧ともいえる行儀の良さはあまり好きではなかった。そしてそれを許容し、はたまたそういった一種の雑多さを望むのがこの幻想郷であった。
「その十六夜咲夜とやら。あんただってわかってるでしょう、私たちがここに来た理由くらいね」
 霊夢の云いに、咲夜は小さく笑む。その頬が笑みを刻むたび、彼女のまとう空気は冷ややかさを増すようだった。
「ええ、もちろん存じ上げておりますわ。けれど、だからこそ私は今ここにいるのよ」
「なるほど、それがメイドの忠誠ってやつか」
「レミリアお嬢様を相手に、あなた達みたいなただの巫女と魔法使いが、粗相をやらかしたらたまったものじゃないものね」
 咲夜の言葉が、尾を引くようにして静寂した廊下に響く。そして両者とも、音の粒たちが朱の絨毯に吸い込まれてゆくよりも早く、言葉が途切れたすぐ次の瞬間には行動に出ていた。
 霊夢が前に出た。ぬさを手に、眼前の咲夜へめがけ宙を疾走する。そしてまた同時、咲夜は僅かな迷いもなくその手を衣服の影に潜らせ、服の内に隠し持っていたにしては嫌に物騒なナイフを取り出していた。
 ひゅっ、と音を立て放たれるナイフ。極めて正確に飛来するその凶器を、これまた正確に幣でもって弾いた霊夢は、息つかせぬ素早さで咲夜に肉薄――その寸前。
「なッ!」
 廊下全域に溢れる光芒こうぼう。柄のないナイフにも似た形をとる刃弾の数々が、めまぐるしい速度で霊夢へと殺到する。
 急激な進路変更――()()()()()()()()()()()――()()()――()()()()()()()()()()――同時――懐から取り出す護符――空中で体制を整えつつ結ぶ印。
 空気の裂ける音とともに、不可視の結界が展開。光の透過さえ拒むがごとく景色が歪むその境界へ、数多の刃弾が突き刺さって霧散する。
 廊下に着地した霊夢は、再び駆け出すのと同時にすぐさま新たな二枚の護符を取りだし、素早く刻まれる印とともにそれを宙へ。音もなく、しかし木枯らしに巻かれた枯葉の様に宙で渦巻いた護符は一瞬ののちに二つの陰陽玉へと姿を変えていた。
「魔理沙ッ!」
 霊夢に言われるまでもなく飛び出していた魔理沙は、複雑な機動力でもって回り込むように咲夜のもとへと驀進ばくしんしていた。
「まるで悪足掻きよ」
 しかし咲夜がそう一言呟くとともに――()()()――点された灯が瞬く間に空間全体を照らし出す唐突さにも似て、無数のナイフが魔理沙の目の前に出現していた。
「くそ!」
 ()()()――無数のナイフを投擲とうてきした張本人であるに違いなかった咲夜を睨むように、前方へ視線を投げつけてにわかに驚愕した。
 ()()()。瞬きすらせぬ一瞬前までそこにあったはずの姿がきれいさっぱり消滅し、きつねに化かされた思いで視線を巡らした瞬間――()()()()()()()()――()()()――()()()()
 息の詰まる思いだった。自分は今、確かに忽然と姿を消した咲夜に驚き、それが無様にも宙にある自分の体を左右に揺らした。だが、もしもその動揺が無かったらナイフは自分の首に突き立っていたのではないか。
 箒の柄を握り込んでいた手で陣を紡ぎつつ、引き攣れた首の痛みすら無視して強引に背後を見――そして瞠目どうもく。無数の刃弾が今まさに彼女めがけ飛来していた。
 間に合わない。それは一瞬の思考だった。迫る恐怖、それが身体を貫くまでの僅かな間に、瞳すら閉じる暇は無く。
 ドッ、という音がしたと思った瞬間、飛来していた刃弾へ横殴りの衝撃が加わり、白銀の輝きを放つ刃弾はたまらず宙で弾け飛んでいた。
「しっかりしなさいッ!」
 弾かれるようにして声のした方を向く。全速力で廊下を駆ける霊夢が、そう叱咤しったすると同時に鋭く幣を振るった。その瞬間、気付くと魔理沙と咲夜とを取り巻く様にして展開されていた二つの陰陽玉が、空気を焦がす速度で鋭利な針弾を放つ。
 連続で放たれる針弾に、いつの間にやら魔理沙の背後へと回っていた咲夜が宙でその体をひるがえす。隙間などほとんど無いと言っていいほどの密度で押し寄せる弾の数々を、彼女は紙一重のところでひらりひらりとかわしていた。
 やられたままでいられるか。そういう強い思いが魔理沙の中で爆発する。そして紡ぎ終えていた陣に魔力を通し、一気に魔法を発動させた。
 イリュージョンレーザー。針弾に勝るとも劣らない鋭さの光線が、一直線に咲夜のもとへと伸びていた。そして縦横無尽に放たれる針弾を避ける咲夜を、新たに迫る光線が確実に捉えたと思われた時――()()()――虚空を貫いた光線が、屋敷の朱い屋根を深くえぐった。
「ちょこまかと……」
 霊夢の低く呻くような声。気付けば、霊夢と魔理沙に囲まれるようにして――彼女たちの動きを同時に封じるようにして、二人の間に咲夜の姿が現れていた。
「おいおい……。いったいぜんたいそれはどういう魔法マジックだ?」
種有り手品(マジック)ではないわ。時間を操る程度の能力。いうなれば種無し手品(イリュージョン)ね」
「ああ、胡散臭いのがまた一人……」
 嘆き、霊夢は床を蹴って宙に舞い戻る。
 仕切り直しといった具合に再び対峙しあう三人。互いに間合いをはかり合いながら、視線だけはひたと相手に据えている。
「霊夢」
「なによ」
 霊夢はちらりと隣の魔理沙を見る。
「ここは私が引き受ける。時間には速度で勝負するのが一番だぜ」
「はぁ!? あんたそれは本気なの?」
 敵の前であるにもかかわらず、思わず素っ頓狂な声が出た。無理もない。つい先ほど、魔理沙は咲夜の時間操作イリュージョンを前にして危うく撃墜されるところだったのだ。それを、自分が咲夜の相手を引き受けて霊夢を先に行かそうと言うのだからその正気を疑いたくなる。だが、
「大丈夫。今のでだいたいわかったからさ」
 そう言う魔理沙の瞳には、爛々と輝く熱意があった。いきいきしていると言っても良い。それに、霊夢は知っていた。こういう顔をしている時の魔理沙は、誰が何と言っても言うことを聞かず、そしてまた、自らがやると言ったことを必ずやり通してしまうということを。
 溜め息をついた。思わず苦笑してしまう。しかし、そこに嫌な苦みがあるわけでは決してなかった。
「そうね。そうしましょ。二人揃ってこんなところに留まってたって、時間が無駄だわ」
 二人はにわかに構え直した。それに合わせ、咲夜もまた一振りのナイフを取り出す。
 ビョウ風巻かざまく音とともに魔理沙が出た。しびれるような震えが後を追って空間に広がる。それほどの速さだった。
 迎え撃つように、咲夜が手にしたナイフを投げ放つ――()()()――まるで怒涛の様な刃の応酬――()()()()()()()()()()()――紡ぐ陣――果敢に――()()()()――()()()()()()
「単調だ! おんなじ方向に撃ってばかりじゃ、私は落とせないぜ!」
 目に留まらぬ速度でナイフを掻い潜る魔理沙に対し、咲夜はその場でひらりと回転ステップ。それはさながら踊るような仕草でもあり、メイド服、そのスカートが美しくふわりと舞った瞬間。
「では、あなたのお望みのままに」
 廊下全体が白銀に包まれる。視界が眩むほどだった。圧倒的な数の刃弾。その全てがそれぞれ交差するように、四方八方に解き放たれる。
「ははっ!」
 ()()()()()()()()()――()()()()()()――()()()()()()()――()()――()()――()()()()()――()()()――()()()()()
 それに合わせて刃弾の速度も増した。嵐の如く、それはますます研ぎ澄まされて正確無比に魔理沙を捕えんと輝きを放つ。その密度がいよいよ魔理沙の飛行技術をもってしても対処しきれぬようになったその時。
ハッ!」
 ゾッ
 さながら魔理沙の突貫を護る様に、彼女の目の前に現れた結界がその視界を覆う刃弾へと食らいついた。それは弾幕の海を好き勝手に泳ぐような魔理沙の動きに合わせ、素早く、無数に、様々な角度をなして幾重にも展開されてゆく。それでいてその境界は、決して魔理沙の行く手を阻まない。
 咲夜は目を見張り、その人間離れした業を見た。自らが放った刃弾の隙間に、霊夢の、周囲に護符を走らせ、一度刻まれた複雑怪奇なこと極まりない印を元に結界を展開させてゆく姿を捉える。背筋が震えた。同時に感動を覚えた。畏怖とも憧憬ともつかぬ無数の感情が胸の中で融け、それは一つの強い衝動へと昇華される。
「ええ、そうね」侮りが消えた。「全身全霊であなた達を切り裂いてあげるわ」
 ナイフを手に、宙を蹴った咲夜が魔理沙に向けて飛来する。まさに飛来と表現するに相応しい鋭さと速さだった。そして魔理沙は笑みをもってそれを迎え、しかし同時に叫んでいた。
「今だ、霊夢っ!」
 はっとして咲夜は振り返る。刃弾の海の中を、霊夢が真っ直ぐと廊下の奥めがけて進んでいる。そんなはずはない。この濃密に張り巡らされた弾幕の中を直線で進むなど有り得ない。しかし現にあの巫女は直線を進む。
 視界の隅に魔理沙の笑みが映った。その瞬間、理解に至った。気付けば単純だった。それまで魔理沙が行っていた無茶苦茶な飛行は、咲夜の織りなした弾幕を虫食いさながらに食い破ったが、時間の経過が全ての穴を結び、結果として霊夢が弾幕を最短距離で抜ける安全地帯を築き上げたのだ。
 絶妙なコンビネーションによって生まれた空白を飛ぶ霊夢の姿に歯噛みした。
 ()()()
 気付くと目の前から消え、真っ直ぐ霊夢の迎撃へと走っている咲夜の姿に、魔理沙は紡いでいた陣を解き放つ。マジックミサイル。魔力の塊ともいえる弾丸が、続々と咲夜のもとへと飛んでゆく。しかし咲夜はそちらを見向きもせず、代わって無数に放たれた刃弾がそれぞれ魔弾と衝突して相殺されてゆく。しかし魔理沙は用意周到だった。
「甘いぜ、メイド!」陣を紡ぐとともにつづっていた呪文スペル。「魔符!」
 白銀の世界を、金の輝きが覆い隠す。
 ――――スターダストレヴァリエ。
 眼前に瞬いた光。方向性というものを持たない、ただ原点としか言い得なかったそれがにわかに猛烈な膨張をみせた。
「くっ!」
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 思わず身を引いた。途方もない物量でもって咲夜を圧倒した星屑たちは、八方へと散ったのちに轟音を伴って炸裂。眩暈がするほどほどの閃光が一切を薙ぎ、圧力を前に刃弾は余すことなく吹き消される。
 そして、いつまでも響き続けるのではと思われた星の瞬きが鎮まった時にはもう、霊夢の姿はどこにもなかった。
「ああ……」
 これまで見せていた冷淡な面に、どこか年相応の可愛らしい困惑の色を見せて咲夜が言う。
「お嬢様に叱られるわ。いやでも、お嬢様もお嬢様で案外こういうのはお好きだし……」
「何をぶつぶつ言ってるんだぜ」
 声に、咲夜は振り返った。まるで椅子に腰掛けるような気楽さで箒に()()()魔理沙が、意地の悪い顔で笑っている。
「あなた、一人になったことを後悔しないでよ?」
「あんたには怖い目に遭わされたからな。そういった相手は、独り占めにしてから苛め倒すに限るんだぜ」
「曲がった性格ね」
「皆におなじことを言われるんだよな」おどけて見せて。「まったく心外だわ」