異様だった。館主の書斎というべきその空間は、しかし個人使用という極めて閉鎖的な空間にしては嫌に広すぎ、また物が極端に存在しなかった。錆びついた血にも似て深紅に覆われた空間。そこを映し出す質素なシャンデリアの明かりはぼんやりと頼りない。シャンデリアの灯りのみでは明らかに光量の足りない部屋全体をそっと照らし出しているのは、据えられた主席の背後に堂々と施されたステンドグラス、そこから注ぎ込む月光だった。
「夜も更けてきたかしら。異変なんて早く解決して帰りたいわ」
 広い部屋の中央に佇み、霊夢はぼんやりと呟く。ひどく広いその部屋で、しかし彼女の小さい呟きはいんいんと響き渡った。
 霊夢はただ一点を見つめ続ける。その視線の先にあるのは、紅い光を溜めて不気味に輝くステンドグラスに見下ろさた主席だった。
「あら、夜は始まったばかりじゃない」
 いらえがあった。幼い少女の、高く澄んだ声だった。
 霊夢の背筋に、冷たいものが走る。続いた首筋を撫で上げるような震えに総毛立った。主席に座した者の発した嬉々としたその声は、極めて純粋に歪んでいた。
「種族が違いすぎるわ。こっちは人間なのよ、()()()()()()()?」
「そうね。私は誇り高きスカーレット家の吸血鬼。あなたはただの巫女。比較するに値しなかったわね」
 吸血鬼――レミリア・スカーレット。紅魔館に住まう紅い悪魔。
 ばさっ、と。その小さな背中から一対の翼が広がった。どこか骨ばった印象を受けさせる飛膜の翼は、彼女の小さく華奢きゃしゃな体を実際の背丈よりも遥かに大きく見せていた。
 足を組んで座したまま、レミリアは静かに霊夢を見下げていた。頬に酷薄な笑みを浮かべ、ばさりと一度だけ翼を羽ばたかせる。たったそれだけの仕草で、遠く佇んだ霊夢の足元を淀んだ冷気が駆け抜けた。
「連れの魔法使いはいないのか?」
「あんたのところのメイドと遊んでるわよ」
「あらそう」
 主席にあったレミリアの体が、ふわりと宙へ浮かび上がった。艶めかしい紅の月光を背に帯び、悪魔の影は、むしろ神々しいとさえ言えた。
「あなたたちを見ていたら、なんだか私も遊びたくなってきてしまったの」どこか芝居がかった仕草で、レミリアは両の腕を広げて見せる。「ねえ、私の相手をしない?」
 霊夢は密かに、右の手にした幣を握り締めた。それでいて飄々(ひょうひょう)と肩をすくめてみせる。それはさながら、人のくだらない冗談に付き合うような身振りだった。そしてまさしく、霊夢はレミリアのくだらない冗談に付き合おうとしている。幻想郷全域を紅い霧で覆うなど、極めて()()()()()冗談としか言いようがなかった。
「楽しい夜になりそうね」
「永い夜は嫌いなのよね」
 それ以上の言葉はいらなかった。
 同時に動いた。霊夢は床を蹴り、レミリアは翼を大きく羽ばたかせた。
 同時に動いたはずだった。しかし霊夢が疾走のための初動から抜け終えるよりも遥かに早く、レミリアの姿は霊夢のすぐ目の前に到達していた。
 凌駕りょうが。そんな言葉が脳裏を電光の如く駆け巡るのと同時に、霊夢は踏み込んだ右足に加わる力の方向を僅かに逸らした。急激な負荷に脚が小さく悲鳴を上げるのにも構わず、彼女は斜め前方の方向へ転がるように跳ぶ。半拍にも満たない瞬間ののち、吸血の鋭い爪甲そうこうがその影を虚空とともに裂いている。
 跳んだ勢いを殺さずそのまま膝立ちに。印を結びつつ護符を背後の吸血鬼へと突き付けた。印が形を成して霊夢の指先から結界が展開されるのとほぼ同時、無数の血濡れた牙弾がだんが不可視の防壁へ突き刺さる。強烈な衝撃。それに逆らわず護符をその場で手放し、結界が霊夢に代わってずたずたに裂かれている間に彼女は背後へ大きく跳躍。霊夢が弧を描く様に駆けるのと同時、残された結界がばらばらに砕け散る。
 宙で七色にひらめく残骸を突き抜け、長大な翼を広げたレミリアが迫った。霊夢はそのまま駆けながら、無数に護符を投擲とうてき。潤沢な霊力によって勢いづけられた護符は、その一つ一つが刃となってレミリアのもとへ飛来。しかしレミリアはそんな護符の数々を、見事なまでの飛行技術を駆使し回避。見る間に霊夢との距離を詰めた。
 ぬさを構えた。そしてレミリアが再びその鋭い爪で霊夢の体を捕えようとするのを、幣の柄でもって次々にいなしてゆく。レミリアは楽しげに両の手を霊夢へと差し伸べ、霊夢がゆらりとかわしてゆく。展開された陰陽玉の放つ針弾が二人の動きに速度と苛烈さを生み、その様はまるで舞踏に興じているようでさえあった。
 ――――嗚呼ああ
 理解に至る。この広く殺風景な空間は、まさしく主の書斎であるのと同時に舞踏の間なのだと。そこで求められるものは喧噪けんそうであり、狂騒であり、闘争であり。ただ主が欲するがままに叫喚きょうかんを奏でるためだけにここは存在しているのだ。
 交錯の間をつき、霊夢は高く跳躍した。レミリアが追撃しようとするのを、数多に展開された陰陽玉から放たれる針弾が制す。陰陽玉を次々と踏み台にして更なる上方へ。
 そして、
「宝符」声高らかに捧げる祝詞スペル。「陰陽宝玉ッ!」
 宙に身を躍らせ、ひらりと体制を反転。目まぐるしい速度で急降下しつつ、宙にあった陰陽玉の一つをかかと落としさながらに()()()
 ゴッ! 収束された霊力を一身に受けた陰陽玉が、一つの光と化して放たれる。一切の影をいだ光の塊が地上へ到達するのに僅かの時間もかからなかった。
 着弾。莫大な光量に視界が消え、鼓膜をつんざく爆裂音が遅れて轟く。舞踏の間、その床板が陰陽玉の衝突した一点を中心に大きく捲れあがり、濛々(もうもう)粉塵ふんじんが立ち込めた。
 空中にあって体制を整えた霊夢は、その体を圧し飛ばそうとする爆風にあらがいつつ、ひたと粉塵の先を見つめた。これだけの破壊力だ。今の一撃を受けて、普通に考えれば敵が無事であるはずもない。しかし霊夢はどうしても、そうした当然の予測がこの状況ではまったく通用しないような気がしてならなかった。
 嫌な沈黙があった。そしてふと、()()()と小さく音がした。
 ゾッ
 音に霊夢の表情が強張るのと、暗い粉塵を突き破って何かがやってきたのはほぼ同時だった。その事を霊夢自身が理解した時にはすでに、その何かは彼女の眼前にいる。互いの吐息さえ届きそうな距離感に成す術とてなく、霊夢の腕は跳ねる様に動いて幣を水平に構えていた。まさしく反射であった。僅かの逡巡しゅんじゅんも許されなかった。そしてまた、その苦し紛れの防御などこの局面ではなんら意味を成さないと更なる理解へ至った時にはすでに、両の腕へ果てしのない衝撃が襲いかかっていた。
 幣が宙に跳ねた。喉の奥から自然と悲鳴がほとばしる。敵は、吸血鬼は、ただその手で払うようにして幣を弾いただけだった。しかしその腕力が桁違いだった。両の腕がいまだ身体と繋がっていること自体が奇跡に思えるほどの威力。もはや肩から先にぶら下がった肉塊に感覚は無く、ただ純粋な恐怖のみが喉を裂くような絶叫として溢れ出た。
「面白いよ、お前」
 吸血鬼は幼く笑んだ。酷く真っ直ぐに歪んだ笑みだった。
 敵の動作があった。途端に空間全体へ妖力が満ちた。もはや本能的に、霊夢は自己の霊力を振り絞る。意志に満ちた霊力と感応した護符が、衣服の内から独りでに散開。紙吹雪に似た護符の乱舞は、一瞬のうちに霊夢へその体を呪縛じゅばくするように貼り付いてゆく。
 しかしそこまでが限界だった。
「紅符」
 穿うがたれる運命スペル――――スカーレットシュート。
 あまりに紅い牙弾が、めくるめく速度で放たれる。
 妖力の塊――紅く強大な弾丸の嵐――一直線に――()()()()()――()()――()()――()()――()()()()()()――()()()()()()()()
 底知れぬ力量の攻撃を受け切った霊夢の身が、矢の様な鋭さで後方へ吹き飛ばされた。背から書斎の壁に衝突。頑強な壁へ放射状の亀裂を生んでその体は静止する。
 視界が歪む。肺が押し潰され、喉の奥から熱い呼気の塊が零れた。焼けるような体内の痛みに再び息を吸う事すらかなわない。手足は言うことを全く聞かなかった。
 途方もない威力。しかしその攻撃を全て、常に彼女の体表面を僅かに覆って身を守る霊力の膜を、護符を用いある種の結界と化しめる事によってしのぎ切っていた。それは絶望的な状況にあって、しかし事態の打開を予見させる確かな事実だった。
 ()()()。視界の片隅に、レミリアによって弾かれたはずの幣が転がった。今になってようやく、幣は床に落ちたのだ。まさしく刹那せつなの攻防。一秒にも満たない思考の空白が命取りだった。
「まだ踊れるかしら?」
 悠然と空中に佇み、霊夢を見下げたレミリアは言った。まさしく悪魔の囁きだった。
「ええ、踊りましょ」力を込めた指先が僅かに震える。それは、まだ彼女が動ける事の証拠であり、彼女の意志を決して誰も砕けえない事の証だった。「今のでようやく、目が覚めた気分だわ」
 夜は、さらに深くけてゆく。
 幻想郷は微睡まどろみ、少女たちはいまだ眠らない。